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スタンプラリーの思い出

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 子供の頃は、8月31日というと、夏休みが終わるという意味で特別な日であったが、大人になってみると、なんと言うことのない日である。他の月と同じく、月の最後の日というだけで、翌日からまた新しい月が始まるに過ぎない。それは何だか味気ないことでもある。

 そんなわけで私は、今日この8月31日に、子供の頃の夏休みの思い出を綴ってみることにした。

 夏休みといって真っ先に思い出されるのは家族旅行であるが、それ以外に思い出深いのは、スタンプラリーである。

 今も鉄道各社が夏休みになるとスタンプラリーを開催しているが、それが始まったのは、私が小学校中学年の頃のことだ。そのスタンプラリーに、小学生の私は夢中になっていた。

 というのも、このスタンプラリーが、私にとって最も身近な東急線で行われていたからである。小学生の身分では、どうしても行動範囲というものが限られるが、身近な路線でやっているスタンプラリーは、友達同士でも気軽に行ける夏の行事であった。

 それともう一つ、スタンプラリーに夢中になった理由として、当時私が、駅のスタンプというものに、並々ならぬ思い入れを持っていたことが挙げられる。

 ただ、私がもともと思い入れを抱いていたのは、東急線の駅にあったスタンプではない。国鉄の駅に置かれていたスタンプである。

 当時、国鉄の駅には「わたしの旅スタンプ」というものが置かれていた。これはスタンプラリーのスタンプとは違い、夏休みの期間だけ置かれるものではなく、通年駅に置いてあるものであった。また、全駅にあるものではなく、大きな駅や特徴的な駅にだけあった。そして、そのスタンプを集めても、私鉄各社のスタンプラリーのように記念品がもらえるわけではなかった。

 では、国鉄の「わたしの旅スタンプ」のスタンプを集める意義は何かと言えば、それは文字通り「旅の思い出」のためであったと言える。専用のスタンプノートに旅先で訪れた駅のスタンプを押していけば、それだけで自分の旅の記録になる。
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 ここに掲げた私のスタンプノートにも、子供の頃に訪れた各駅のスタンプが並んでいる。それらを見ていると、昔の旅の思い出が蘇る。押されたスタンプは、旅の目的地であった駅のものはもちろん、途中の乗り換え駅のものも多い。ずいぶん熱心に押していたんだなあと、私は感心してしまった。

 そんな「わたしの旅スタンプ」についてはまた改めて想いを綴りたいと思うが、ここで言っておきたいのは、そのスタンプのデザインである。 

 この「わたしの旅スタンプ」は「どれもみな、その駅のある土地や町の自然や文化、駅の特徴などにちなんだキャッチフレーズとイラストレーションが入っています」と、専用のスタンプノートには紹介されている。例えば、私のスタンプノートに押されたスタンプのキャッチフレーズをいくつか並べてみると、

 アルプスを望む国宝松本城のある駅 篠ノ井線・松本駅

 高原と湖のある駅 篠ノ井線・聖高原駅

 一生に一度はお参り・善光寺のある駅 信越本線・長野駅


などとなっていて、それに因んだ絵柄が付いている。そんなところが、旅の思い出としての価値を一層高めていたように思う。

 ところで、東急で始まったスタンプラリーも、当初はスタンプのデザインに各駅近くの名所が採用されていた。

 国鉄の「わたしの旅スタンプ」みたいにキャッチフレーズはなかったけれども、当時の私にしてみれば、それはまるで憧れの「わたしの旅スタンプ」が地元の駅にも設置されたみたいで、嬉しかったものである。何年か後に、京王でも同様のスタンプラリーが始まったが、これもやはり、駅近くの名所をデザインしたスタンプであり、やりがいがあった。そういうわけで私は、スタンプラリーに人一倍熱心だったわけである。

 だが、東急のスタンプラリーのテーマも、数年後には鉄道の仕組みを学ぶような「学習型」に変わってしまったし、今ではどの鉄道会社のスタンプラリーも、アニメのキャラクターや映画とタイアップしたものになってしまっている。それでは何だか、駅とスタンプの絵柄に関連がなく、一駅一駅を巡るという意義が薄いようにも思う。

 また、昔は全駅のスタンプを制覇してやっと記念品がもらえたものだが、最近のスタンプラリーは、集めたスタンプの数ごとに記念品が決まっていたりして、全駅を巡るという必要もないようである。ただ、その分スタンプラリーに挑む人の裾野が広がったように感じる。アニメキャラクターがテーマというのも、子供たちを惹き付ける理由になっているのだろう。小さな女の子が、アニメキャラクターの帽子をかぶって、お父さんやお母さんとスタンプを押している光景などは、見ていて微笑ましい。

 しかし、私が子供の頃のスタンプラリーは、もっと殺伐としたものであった。まず、親子連れの姿というものがあまりなかったように思う。私も友達と回っていたし、周囲にも親子で巡るという参加者は、あまり見受けられなかった気がする。スタンプ帳を手に駅や電車にいるのは、子供ばかりであったという記憶がある。

 ところで、スタンプラリーというものは、一駅電車に乗って降り、スタンプを押してまた次の電車に一駅乗って降り、という繰り返しである。当然、急行などには乗れないから、各駅停車だけを使って、一駅ずつ下車していくことになる。

 そうすると、同じ電車でスタンプラリーを回っていく顔ぶれが次第に決まってくる。そのとき、子供同士の間に起きるのは何か。それは、いわゆる「闘争心」である。つまり「次の駅では、あいつらよりも早くスタンプを押してやる」という気持ちだ。

 そこで私は、一緒に回っている友達と示し合わせ、電車が駅に着いた途端に猛ダッシュし、階段を駆け下り、改札付近のスタンプ台に突進していた。そして、相手よりも早くスタンプを押せたという「優越感」に浸る。それは子供の私にしてみれば、まるで宇治川の先陣争いに勝った佐々木高綱のような心境であった。

 そして、次の駅でも先陣を切ろうと、階段に近い降り口を予想する。以前にその駅を通ったときの記憶などを頼りに、次は一番前だ、とか、いや真ん中だ、とか、友達とあれこれ言い合いながら当たりを付けるわけである。そうやって、より有利に次の「戦い」を進めようと戦略を練っていた。

 この前、私が小学生のときに使っていたメモ帳ともらくがき帳ともつかないものを眺めていたら、紙の端に「○○駅 ○号車○番目ドア」といった殴り書きが目に付いた。これは、スタンプラリーでの先陣争いに備え、たまたま東急線のどこかの駅を通ったときにメモしたものだと思われる。そうやって、シーズンオフも、常に「戦い」に備えていたのだろう。

 そういうわけで、昔のスタンプラリーは今と違い、いわばヤるかヤられるか、の勝負であった。ただ、ある路線の終点まで行ったときには、まさに「昨日の敵は今日の友」というわけで、一緒の電車で回っていた見ず知らずの人と打ち解け、仲良く帰ってくるなんていうこともあった。それもまた、夏の思い出である。

 勝負といえば、スタンプラリーにはもう一つのチャレンジがあった。それは、ある電車で駅に着いたら、その電車が発車するまでにスタンプを押して、また同じ電車に乗り込むという「ミッション」である。

 スタンプが改札辺りにあるのに、そんなことができるのか、という疑問があるだろう。ましてや都会の電車は停車時間が短い。しかし、これをできる駅があった。東急目蒲線や池上線の駅である。

 これらのローカルな路線の中には、ホームの端が改札になっているような小さな駅がいくつかあり、電車から改札までの距離が近かった。だから、あらかじめ改札近くの降り口で構えて、いの一番で電車を降り、すばやくスタンプにたどり着いて急いで押し、まだ停車中の電車に駆け込むという妙技ができた。当時は自動改札があったかなかったかの頃だったし、手にしていたのはスタンプラリー用のフリーパスだったので、改札を抜けるのも駅員にさっとパスを見せれば済むわけで、自動改札を通るような時間のロスもなかった。そんな背景もあって、このチャレンジは可能となった。

 しかし、今考えればそこまでして何が面白かったのかと思う。時間の節約にはなったが、当時はそれほど時間に追われていた記憶はない。別に一日で全駅回らなくても良かったし、開催期間は夏休みいっぱいなのだから、何にも焦ることはなかった。だから、今考えるにこのチャレンジは、単に「スリル」を味わいたかっただけなのかもしれない。



 と、ここまで得意げにスタンプラリーの武勇伝を語ってみたが、威張っている場合ではない。今思えば、何と迷惑な客だったのかと思う。ホームや階段は走るし、駆け込み乗車もする。そんな子供を今私が見たら、イライラして蹴り飛ばしているだろう。だから私は、二十数年前の私を蹴り飛ばしてやりたいし、また当時の生意気なクソガキになりかわって、東京急行(現・東急電鉄)や京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に伏してお詫びしたい。

 当時は本当に申し訳ございませんでした。


1枚目 スタンプラリーのスタンプ帳
※1986年のもの。東急は3回目、京王は初めてだった。東急のスタンプラリーのテーマはすでに「学習型」のものになっていた。

2枚目 国鉄監修の「わたしの旅スタンプ」のスタンプ帳(一番右端はJR監修)
※中のスタンプについてはまた改めて紹介したい。

by railwaylife | 2010-08-31 23:12 | その他 | Comments(2)

省エネ電車

 私が中央快速線の201系電車を初めて目にした日は、はっきりとしている。それは、昭和54年(1979)5月13日だ。この日、新製間もない201系が、原宿駅宮廷ホームでお披露目され、私は父に連れられてその会場に出かけたからである。

 初めて201系を見た私は、どんな想いを持ったのだろうか。残念ながら、今となってはそれはわからない。何しろまだ御年四歳のときのことだからである。

 ただ、このとき会場でもらったパンフレットが取ってあったなと思って、この前家の中を漁ってみた。すると、部屋の隅の古びた箱の中からパンフレットは出てきた。
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 懐かしいパンフレットであった。子供の頃は、これを良く眺めていた気がする。

 ところで当時、この201系は「省エネ電車」という触れ込みで登場した。パンフレットの「1.はじめに」という項にも、そのことが書かれている。


 国民の生活レベルの向上、昭和48年のオイルショック以来の省資源・省エネルギ施策への転換等々の背景があり、この新しい時代の要請に応えて、将来の通勤電車として試作されたのが、この201系電車であります。


 ここにある「省資源」とか「省エネルギ」という言葉が出てきたのは、まさにこの時代からであろう。今で言う「エコ」みたいなものである。その後、バブルの時代があって、そんな言葉は一旦影を潜めるのかもしれないが、私が育ってきた時代は、いかに資源を使わずに生きていくか、が問われてきたのだと言える。そのことは今、地球温暖化という課題に直面して、より切実になっている。

 さて、その201系の「省エネ」を具現化したのが、新しい制御方式である「チョッパ制御」であるという。電流をモーターに流すための方式のことで、その仕組みがこのパンフレットにも詳しく書かれている。
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 なかなか専門的で、物理が一番の苦手教科である私には、いまだに理解するのがちょっと難しい。きっと、子供の私には、ちんぷんかんぷんだっただろう。

 パンフレットにはほかに、乗り心地や客室設備が改善されたことなども記されている。七人掛ロングシートの一人分の配色が変えられていて、きちんと七人が座れるようにした工夫も、当時としては斬新であった。

 そして、このパンフレットの末尾にあった文字に、私の目は留まった。
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 この「東京西鉄道管理局」という文言も懐かしい。そういえば国鉄時代には、東京北鉄道管理局、東京南鉄道管理局なんていうものもあったなと思い出す。その中で、他の管理局に先駆けて、当時この最新鋭の通勤電車を導入できた東京西鉄道管理局はさぞ誇らしかっただろう。その誇らしさが、この文言には感じられた。

 パンフレットが作られた時代から三十一年を経た現在、新型のJR世代車両に紛れて走る201系の技術は、すでに「古いもの」になってしまったと言える。
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 そして、今の最新鋭であるE233系は、きっと「省エネ」という意味では、201系のそれをはるかに上回るはずである。201系が引退するのも、時代の流れとして当然のことだ。

 そんな中央快速線の201系を、私が最後に目にするのは、いつのことになるのだろうか。それはわからない。先日も書いたように、通勤で中央本線を利用している以上、好むと好まざるとに関わらず、201系を見ることになるからである。でも、私としてはもう「見納め」を済ませているから、それはいつでも良いと思っている。ただ、これから201系に偶然出会ったときには、その場所と日付を覚えておくようにはしておきたいと考えている。後で「ああ、あれが最後だったんだな」と思えるようにしたいからである。

 さて、先日から「中央特快」や「大月行き」など、201系に対する想いを綴ってきたが、これでもう、201系について、このブログで書いておきたいことは特にない。首都圏には、中央快速線以外にも、京葉線にスカイブルーの201系がまだ残っているが、蒼ざめた顔の201系にはほとんど思い入れがないから、別に見に行こうとも思わない。だから、せっかくこないだ作ったこの「201系」というカテゴリの記事が増えることも、もうないと思う。

 ただ、201系は関西にもいる。大阪環状線には、中央快速線と同じオレンジ色の車両がわんさかいる。また、関西本線にはウグイス色の車両までいる。だから今後もし、私が関西へ行く機会があって、そういう201系を目にすることがあったとしたら、また201系への想いを綴ることはあるかもしれない。




 ところで、私が201系のパンフレットを発見した箱からは、子供の頃にためこんだ、さまざまな鉄道関連の資料が出てきた。いや、資料と言うと聞こえがいいけれども、他人から見ればゴミみたいなものがほとんどである。だが、どれをとっても私には、懐かしくて思い入れのあるものばかりであった。そこで、今後機会があれば、そのゴミみたいな資料に対する想いを、このブログにも綴っていきたいと思う。


中央快速線
201系電車 中央本線新宿駅にて 2010.5.23
by railwaylife | 2010-08-30 07:54 | 201系 | Comments(0)

夏富士

 昨日の夕方、用事を済ませた帰り道、二子玉川駅で電車を乗り換えようとホームに降り立つと、多摩川の川原越しに富士山の姿が見えた。

 姿が見えたと言っても、ほんのりとオレンジ色に染まった白い空に、ぼんやりと青黒いシルエットが浮かんでいるだけであったが、夏に富士山が見えるとは珍しいなと思いながら、電車を待つ間に私はそれを見つめていた。

 その後、帰り道の大井町線に乗りながらも、富士山の眺めのことを考えていた私は、あることを思い出した。それは、この沿線に富士山の良く見える場所があったということである。それで私は、二子玉川駅の次の上野毛駅で下車し、その場所へと向かってみた。

 駅前から環八通りを渡って線路沿いに出て、二子玉川方面へ戻ると、切り通しになった大井町線にかかる二つ目の橋が、富士山を眺めるポイントである。この橋の名を富士見橋という。橋の真ん中に立って二子玉川方を見れば、まさに正面に富士山の姿がある。文字通り、富士を見るために作られたような橋だ。
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 ただ、日が暮れかけてきたこともあって、二子玉川駅で見たときよりも山の姿はぼんやりとしてきた。しかも、山は雲を纏ってきた。

 そんな富士山と一緒に、9000系を捉えてみた。
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 大井町線の電車を入れるためには、カメラを引かなければいけない。そうすると山の姿は小さくなってしまう。だから、富士山だか何だかよくわからなくなってしまった。

 ここで富士山と電車をはっきりと捉えるためには、冬の良く晴れた朝にでも来なければいけないなと思う。でも、それが来るべき季節の楽しみにもなってきた。


東急9000系電車(9006F) 東急大井町線上野毛駅~二子玉川駅にて 2010.8.28

by railwaylife | 2010-08-29 22:22 | 東急9000系 | Comments(0)

大月行き

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 通勤で利用する中央快速線の下り列車には、さまざまな行先があって楽しい。通常は高尾行きであるが、車両のねぐらのある豊田行きや武蔵小金井行きも多い。また、立川行きや八王子行きなど、主要駅止まりの列車もある。それから、青梅線に乗り入れる青梅行きも数がある。これに加え、夕方の帰宅ラッシュ時には、武蔵五日市行き、箱根ヶ崎行きといった珍しい行先もある。

 そんな中で、始発の東京駅から最も遠いところまで行くのが、大月行きの列車である。
 いや、正しく言うと、富士急行乗り入れの河口湖行きが最長距離列車になるが、これは大月から富士急行に入ってしまうので、中央本線上だけで見れば、大月行きも河口湖行きも、最も遠くまで行く列車ということになる。

 そんな大月行きは、朝方と昼間、そして夕方から夜にかけ運行されているが、その列車を仕事の行き帰りにたまたま見かけると、大月まで行ってしまいたいなあという気になる。小仏トンネルを突き抜けるこの列車の車窓には、桂川沿いの緑深き車窓が展開するからである。その眺めを見てみたいと、私はいつも思う。

 ただ、この大月行きに用いられている車両は、他の中央快速線の列車と同じE233系であり、またいまだに201系が入ることもある。どちらも、言うまでもなく通勤型のロングシートを備えた車両だ。だから、いくら眺めの良い車窓が展開するとは言っても、通勤型のロングシートに座って、首を曲げながら窓外を見なければならない。それでは車窓を見る楽しみが半減してしまう。

 そう考えると、せっかく大月まで行くのなら、立川や高尾始発の115系普通列車に乗った方が良いなと思う。115系にはボックスシートがあるから、車窓を存分に楽しむことができる。もし車内がすいていれば、前の席に足を投げ出してくつろいだって良い。

 しかし、やはり東京や新宿から直通で大月まで行ける、というところに魅力がある。同じ車窓なのに、都心の窮屈なビル群の風景から、川沿いの緑深き風景にガラリと変わるということが面白いわけである。そう考えると、中央快速線の大月行きを乗り通してみたいという気持ちもある。それでも、座席のタイプがロングシートじゃなあ、という思いがやっぱりある。

 何だか堂々巡りになってしまっているが、いろいろと考えているうちに私は、そもそもなぜ中央快速線の大月行きはロングシートなのか、という疑問に行き当たった。

 時刻表を見ると、東京から大月までの営業キロは87.8kmある。これはけっこうな距離であり、ボックスシートのある近郊型電車が走っていてもおかしくないはずである。

 例えば、東海道本線で言えば、東京から86.0kmの早川に相当する距離であり、この早川の一駅手前の小田原行きには、近郊型電車が充てられている。また、東北本線で言えば、上野から87.1kmの自治医大に相当する距離であり、この自治医大の一駅手前の小金井行きにも、近郊型電車が充てられている。それから、高崎線で言えば、上野から86.4kmの神保原に相当する距離であり、この神保原の四つ手前の籠原行きにも近郊型電車が充てられている。さらに、常磐線で言えば、上野から88.7kmの羽鳥に相当する距離であり、この羽鳥の四つ手前の土浦行きにも、近郊型電車が充てられている。

 こうして見てみると、首都圏の他の幹線ではいずれも、東京-大月間と同等かそれより短い距離の列車に、ボックスシート車両付きの編成が充当されていることがわかる。それだけに、大月行きはなぜロングシート車両だけで組成されているのかという疑問は出てくる。

 しかし、中央本線と他の幹線の列車には決定的な違いがある。それは、一編成あたりの車両の数である。東海道本線、東北本線、高崎線、常磐線の列車がいずれも最大15編成であるのに対し、中央快速線の列車はすべて10両編成である。

 10両編成に、着席定員の少ないボックスシート車両を組み込むことは、都心部での混雑度を考えれば、不可能なのだろう。

 だったら中央快速線も15両編成にしたらいい、などと思ってしまうが、そうするためには快速線停車駅のすべてにおいて5両分のホーム延伸工事を行わなければならない。そこまでしてボックスシートを付ける意義があるのかと言えば、せいぜい私の欲望を満たすくらいであろう。もちろん、多少の混雑度緩和にはつながるのだろうが、費用対効果という意味では、それほどの効果があるとも思えない。だから、中央快速線を15両編成にしてボックスシートを付けろ!という意見は、まったく無駄なものであると言えよう。

 それにそもそも、大月まで行く列車にそれほど長い編成が必要なのか、という根本の問題がある。

 考えてみれば、先に挙げた小田原、小金井、籠原、土浦というのは、いずれも関東平野内の駅であり、沿線には宅地も多くそこそこ乗客が見込めるだろうと思う。それに対して大月は、関東平野から山間部に突っ込んだところにあるから、残念ながらそれほど乗客は見込めないのではないか、という気がする。そういう意味ではきっと、今の10両編成で十分なわけであり、閑散時間帯の日中に至っては過分であると言えるのかもしれない。だから、15両編成にするなんてことは、やはり無意味なのだろう。

 だったら高尾あたりで編成を分割して、ボックスシート付きの5両くらいだけ大月まで行けばいいのではないか、と思ったりもする。しかし、それも無駄なことである。編成をくっ付けたり離したりするには、それなりに手間がかかる。そこまで言うなら、高尾で115系の列車に乗り換えてください、という話でおしまいであろう。

 そんなことをいろいろ考え合わせれば、東京発大月行きにボックスシートを付けてくれという私の切なる願いは、いわば「妄想」であり、車窓にこだわる私の「戯言」と言えるだろう。

 まあ、そんなに都心から郊外への車窓の変化を楽しみたいというなら、休日朝のホリデー快速に揺られるか、特急料金をおとなしく払って「あずさ」か「かいじ」に乗ればいい、というだけの話である。


大月行き中央快速線201系電車 中央本線中野駅にて 2010.3.4

by railwaylife | 2010-08-29 16:51 | 201系 | Comments(0)

夏空の9000系

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 東急大井町線に、また新たに9000系が一編成加わった。当然、その分東横線の9000系が一編成離脱しているわけだが、この車両の動きを「東横線の9000系が減ってしまった」と言うより「大井町線の9000系が増えた!」と言った方が、私にとっては嬉しく感じられる。

 これで大井町線の9000系は、合計6編成になった。大井町線で9000系を目にする機会が、グッと増えたというものである。それで私も、8000系が走っていたとき以来、また大井町線に注目するようになった。

 今日は、そんな大井町線9000系を、広い夏空の下で見送ってみた。

東急9000系電車(9006F) 東急大井町線尾山台駅~等々力駅にて 2010.8.28

by railwaylife | 2010-08-28 23:49 | 東急9000系 | Comments(0)

中央特快

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 まもなく引退する中央快速線201系を、私は6月19日に早々と「見納め」してしまったが、その後も201系は粘り強く走り続け、この8月になってもまだ定期運用に就いている。

 遅くともさよなら運転の始まる先月下旬には運用を離脱するだろうと思っていたので、いまだに走り続けていることは、私にとってはある意味驚きであった。

 そんなこともあって、私は「見納め」をしてから六、七回は201系を偶然目にしている。通勤で中央本線を利用しているから、それは当然のことと言えるかもしれないが、運用も何も調べていなくてもこれだけ遭遇できるものなんだなと、私は思い知らされた。

 しかし私はもう、201系を撮ろうとも、また201系に乗ろうとも思わなかった。自分では「見納め」を済ませたつもりだからである。だから、心残りはない。いつまで追っかけをやっていても切りがないし、また突然運用を離脱したときの喪失感も味わいたくない。それに何より、一編成しかない車両を追いかけるという行為に疲れてしまった。今は、もっと自由に、何にも縛られず、自分が見たままの中央本線というものを捉えたいと思っている。

 ただ、中央快速線の201系に対する想いについて、いくつか綴っておきたいことがあるので、今のうちにその記事を載せておこうと思う。

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 冒頭に掲げた写真は、まだ寒い頃に、夜の中野駅で捉えた201系中央特快のマークである。

 この中央快速線の列車種別マークは、幼い頃からカッコいいなと思って眺めていた。もっとも昔は、今のような幕式のものではなく、着脱のできる形式のマークであった。

 そのマークは、201系の一世代前の101系も付けていたようだが、そんな101系の姿は写真の中の存在であり、私の記憶に残っているのは、やはり201系がこの種別マークを誇らしげに掲げた姿である。

 マークの掲出方法は昔と変わってしまったけれど、その字体は以前と変わらぬように思う。いわゆる「国鉄フォント」とでも言うのだろうか、独特の筆致である。そんなところに私は、懐かしさを感じたりしている。

 しかし、この「国鉄」っぽいマークが中央快速線の電車に掲げられるのもあとわずかの間のことであり、私は今後そのマークを目にすることはないのではないかと思う。でも、こうやって記録して、記憶にも残っているから、もう十分だと考えている。

 そしてこれからの中央快速線は、前面に種別マークなどを掲げることのないE233系の独壇場となる。

 その種別マークのないE233系は、どうやって列車種別を表示しているかというと、最新式のフルカラーLEDの特性をいかんなく発揮し、行先表示に色別で種別を表示している。中央特快なら青色、青梅特快なら緑色、通勤特快なら濃いピンク色、通勤快速なら紫色、といった具合である。また、通常の快速の表示はオレンジ色だし、朝晩の各駅停車運用では黄色を表示する。文字通りカラフルな表示である。特に中央特快の青色表示などは、白色と銀色とオレンジ色の車体にあっては良いアクセントになっており、けっこう見栄えがする。

 とは言え、このE233系のLED表示は、201系の種別表示に比べれば格段にサイズが小さくなっている。だから、これで乗客は種別の識別がちゃんとできているのだろうかと疑問に思うことがある。

 だが、このE233系のLED表示は、ご丁寧に側面に次の停車駅を表示できたりもするから、サービスレベルとしては向上していると言えるのかもしれない。きっと、私が心配している程に誤乗もないのだろう。

 ただ、LEDによる列車種別表示や行先表示は、どんなにカラフルで鮮明になったとしても、やっぱり何となく味気ないんだようなあと思ってしまうものである。 


中央快速線201系電車 中央本線中野駅にて 2010.2.19

by railwaylife | 2010-08-28 14:13 | 201系 | Comments(0)

涼を求めて

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 新宿着9時26分の特急「スーパーあずさ」4号は、私が朝の通勤でよく見かける列車だ。せわしなく行き交う通勤電車の隙間を縫って、ゆっくりと都心へ向かって行く姿が印象的である。

 この「スーパーあずさ」4号は、松本駅が始発で、6時51分に発車している。そこから諏訪地方を抜け、小淵沢辺りの高原を過ぎ、甲府盆地を経て再び山間に入って桂川沿いの谷を抜け、東京へとやって来る。その間、標高の高い沿線を往くときにはきっと、朝の涼やかな風が車体を包んでいることだろう。

 だからこの「スーパーあずさ」4号は、バカみたいに暑い都会の朝に、山間の涼風を運んで来てくれる列車だと、私は思っている。E351系のパープル色の車体は、まさに一服の清涼剤と言える。

 それで最近は、この列車をじっと見送ることが、私なりの「涼を求める」術になっている。






 と書いてみたが、実際に「スーパーあずさ」4号が走ってくる沿線の朝は、涼しいものなのであろうか。それが気になった私は、沿線各地の気温を調べてみた。データはいずれも、私が冒頭に掲げた写真を撮って「スーパーあずさ」4号を見送った、一昨日2010年8月25日のものである。

 この列車が始発の松本駅を発つ1分前の6時50分、松本駅と同じ松本市内にある松本特別地域気象観測所では、24.3℃を観測している。盆地で暑いイメージのある松本だが、やはり朝晩はそれなりに気温が下がるようだ。熱帯夜にもなっていない。

 松本駅を発って三つ目の停車駅の上諏訪駅に到着するその3分前の7時10分、駅近くの諏訪特別地域気象観測所では23.9℃を観測している。諏訪は松本より涼しいんだなと感心する。実際、標高は諏訪の方がずっと高い。

 ここから中央本線は、さらに標高の高いところを行くことになるが、残念ながらこの辺りの沿線に気温の観測地点がない。しかし、諏訪よりもう少し低いのではないかと思う。だから私は、涼やかな空気の中で朝日に照らされるE351系の姿を心に描いてみた。

 ただ、山梨県に入って甲府盆地に至れば気温は上がるだろう。案の定、列車が甲府駅に到着する5分前の7時50分、甲府地方気象台では 25.5℃を観測している。とは言え、東京から見れば25℃台でもいいなと思う。この日、東京管区気象台が観測した都心の最低気温は、4時40分の27.7℃となっている。

 さて、甲府駅を発った列車は、再び勾配を駆け上り、標高の高いところを行くようになる。だから、甲府よりも気温は下がるのではないかと期待していた。だが、沿線にある大月市内のアメダス大月観測所では、列車が同市内の大月駅を通過すると考えられる時刻の8時30分、28.8℃を観測していた。けっこう上がるものなんだなあと私はちょっとがっかりした。とは言え、時刻はもう8時30分になっているから、仕方のないことではある。

 そして、小仏トンネルを抜けた列車は、灼熱の都会へと突っ込んで行くことになる。私がこの列車を吉祥寺駅で見送った9時10分、最寄りの観測地点である練馬では、すでに31.9℃に達していた。おそらく同時刻の吉祥寺駅のホーム上も、30℃台には突入していただろう。そんな暑さの中、特急「スーパーあずさ」4号は、とろけそうな朝日に向かって、そして燃えたぎる都心へと向かって、去って行ったものである。



 こうやって各地の気温を調べてみると、正直言って思ったほど気温は低くなかった。しかし、朝の東京よりは、だいぶ低かった。だから、私がこの「スーパーあずさ」4号に涼を求めることも、あながち間違いではなかったんだなと思った。


特急「スーパーあずさ」4号  中央本線西荻窪駅~吉祥寺駅にて 2010.8.25

by railwaylife | 2010-08-27 23:52 | 中央本線 | Comments(0)

仕事帰りの夕空

 八月も残りわずかだというのに、ひどく暑い日が続き、秋の入口などまったく見えて来ないが、日の出から日の入りまでの時間は確実に短くなりつつある。その意味では、季節は確実に進んでいると言える。

 ちなみに、東京の今日の日の入り時刻は18時18分である。これは、一番日の長かった先月初めより50分近くも早くなっている。今後も、どんどんと日の入り時刻は早まり、そのうちにたとえどんなに早く仕事を切り上げて職場を出たとしても、外はもう真っ暗ということになっているだろう。それは何だか、ひどく寂しいものである。

 そこで私は、そうなる前に、もう一度だけ仕事帰りの夕空を見ておきたいと、このところ思っていた。

 しかし、ここ何日かはけっこう忙しく、とても日の入り時刻前後に職場を出ることはできなかった。だから、この夏はもう仕事帰りに夕焼けを見ることもなく終わっていくんだろうなという気がしていた。

 それでも今日、私は最低限の仕事だけを片付けて、無理に早く職場を出てみた。明日の仕事がちょっと大変になりそうだったが、そんなことは明日の自分に丸投げし、今日の自分は夕空を眺めようと思った。

 職場の窓からは西の空が見えず、今日の夕空はどんなものだかわからないまま外へ飛び出してしまったが、駅への道を歩いていくと、それなりに夕焼け色をした空があった。私は、まあまあかな、と思った。曇って色のないような空よりはずっとましだった。実際、昼間はよく晴れていたのに、夕方になると曇っていて夕焼けも何もない日だってあるし、日の入りの西空だけ妙に雲が多くて、その雲の端がほんのちょっとだけ桃色に染まっているなんていう日もある。それを考えれば、今日は恵まれていた。

 さて、そんな夕空をじっくり見るとしたら、どこが良いか。私はその場所を決めていた。職場最寄りの荻窪駅の一つとなり、阿佐ヶ谷駅である。この駅の緩行線ホームの三鷹寄りに立てば、ちょうど快速線の列車越しに夕空が望める。そこは私にとっては、ちょっとした夕空スポットみたいなところである。

 そんな場所へ一刻も早く行きたかった私は、荻窪駅からそそくさと緩行線電車の最後尾に乗り込んだ。

 荻窪駅を出た電車は、天沼陸橋をくぐると高架線にかかる。それを上って行くほどに空が広くなるが、見えてきた夕焼けは、職場を出立てに目にしたものより、ずっと薄らいだ色になっていた。時計を見れば、ちょうど日の入り時刻であった。なんだ、今日の夕焼けはもうこれで終わりか、と私はがっくりきた。そのときの眺めは、果たしてわざわざ阿佐ヶ谷で途中下車するほどのものかというくらいだったからである。

 それでも私は、阿佐ヶ谷駅のホームに降り立っていた。いつも思うことだが、今日の景色は今日しかないからである。それで、ホームの隅っこでぼんやりと薄っぺらな夕空を眺めていた。

 すると、時が経つほどに夕焼けが濃くなっていくように見えた。と言っても、ほんのわずかな間の出来事である。この時間の空の表情は、本当に瞬く間に変わってゆくものである。

 そして、空の染まり具合が広がっていくように見えた。沈んだはずの太陽から解き放たれる薄桃色の淡い光が、地の底から上空へ突き抜けていくように広がって、西の空を染める。私はカメラを構え、無心でそれを捉えていた。
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 これは、見る価値のある空だと思った。折しも目の前を、帰宅客のいっぱい乗った下り通勤電車が駆けて行くが、車内の右窓際にいる乗客の目に、ぜひこの夕空が届いていてほしいと、私は思った。
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 その電車が去って行くと、大糸線南小谷からの特急「あずさ」26号がぬっと現れた。この特急列車の、長い長い車窓風景の最後を染める夕空であった。
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 特急「あずさ」26号を見送ったところで私は満足し、緩行線の上り電車に乗った。何だかもう、夕焼けも薄まっていく感じがしたからである。しかし、電車の最後尾に付いてくる夕空は、また色が変わってきたような気がした。高円寺駅のホーム越しに、そして中野駅手前の囲桃園跨線橋越しに見えたその色は、燃えるように赤味がかってきた。私は思わず、跨線橋へ駆け付けたい気分であったが、きっとその間に夕焼けはしぼむように思えた。それはまるで、消える寸前に燃え盛るロウソクのようだったからである。

 ただ、私が乗っていた電車は東西線直通だったので、中野駅で乗り換えねばならなかった。それでホームに降りると、そこからも夕空はかろうじて見えた。私はホームの端に佇んだ。すると、携帯電話を手にした女性がやって来て、空に向かって携帯を掲げ、写真を撮り始めた。やっぱり今日の夕空は、見る価値があるよな、と私は思った。

 それで私も、おもむろにカメラを取り出し、去り行く中央快速線電車をまた捉えてみた。そこには、夕焼けがいよいよしぼむ寸前の、最後の赤色があった。
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 こうして私は、今日の夕空を存分に眺めることができた。だからもう、また日が長くなる時期まで、仕事帰りの夕空が見られなくてもいいと思った。これでしばらくは、日の入り時刻を気にしながら仕事をすることもなくなるだろう。


1枚目 3573M E257系「中央ライナー」3号 中央本線阿佐ヶ谷駅~荻窪駅にて
2枚目 1708T E233系快速 中央本線阿佐ヶ谷駅~荻窪駅にて 
3枚目 1841T E233系快速 中央本線阿佐ヶ谷駅~荻窪駅にて 
4枚目 76M E257系特急「あずさ」26号 中央本線阿佐ヶ谷駅~荻窪駅にて
5枚目 1863T E233系快速 中央本線中野駅~高円寺駅にて

いずれも2010.8.26

by railwaylife | 2010-08-26 23:39 | 中央本線 | Comments(0)

夏草のE259系

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 春先、咲き始めた桜の花に誘われて初めて来たこの渋谷駅近くの公園は、緑越しに山手貨物線の列車が眺められるので、けっこう気に入っている。それで、桜が散ってからも何度か足を運んでいる。

 そんなこの公園も、夏を迎えて線路脇の草がすっかり伸び、こうして行き交う列車の足元を隠すまでになった。でも、そういう風景が夏らしいなあと思って、私は眺めている。緑の少ない都心の線路際では、雑草でさえ嬉しく感じられるからである。

 参考までに、同じ場所の四月の風景はこんな感じであった。
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 当時はまだE259系にあまり思い入れもなくて、適当に撮ったものだが、緑が列車を隠すことがなかったというのは、よくわかる。そして、二つの写真を見比べれば、季節の変化も感じ取れる。都会の中にあっては貴重なことだ。

 しかし、世の中には、線路際の夏草を快く思わない方々もいらっしゃるようである。

 以前、私がお気に入りにしている鉄道ブログを読んでいたら、筆者がある場所で列車を撮影するのに、線路際の雑草が邪魔だから、自らそれを刈ったという話が載っていた。

 そしてまた、草が刈られていないのはJRの怠慢で、代わりに草刈りをした自分に感謝してほしいといった旨のことも書かれていた。

 この記事にはいくつかコメントも付いていたが、どれもその行為に賛同するもので、筆者に対して「ご苦労様でした」というようなねぎらいの言葉もあった。

 しかし私は、どうしてもその行為に納得がいかなかった。なぜ、わざわざ草刈りをしなければならないのか、ということである。

 それはおそらく、列車の足回りが草に隠されることを嫌ってのことだろう。車両の全体が撮れないと「鉄道写真」にはなり得ないからである。とは言え、そのために草を刈るというのはどうだろう。

 もちろん、草が伸び過ぎれば、列車の運行に支障が及ぶということもあり得るかもしれない。しかしそこは、運行する側もちゃんとわかっていることだ。現に私は都内のJR線沿線でも、黄色いヘルメットを被った人たちが線路際の草を一所懸命に刈っているのを見たことがある。折しもそれは暑いさなかで、非常にきつい作業に見えた。

 そんな様子を思い出し考えたのは、JRが線路際の草を刈るか刈らないかは、やはり列車の運行に支障があるかないかという観点で行っており、すべての沿線の草を刈っているわけではないのではないか、ということである。ましてや、写真を撮るのに車両の足回りが隠れるか隠れないかなどということは、全く関係がないだろう。必要最低限の投資でやっているのだと思う。

 そうであるとしたなら、ブログの筆者がJRの怠慢だというのはお門違いだし、だいたい線路際の草を勝手に刈って良いのかという疑問もある。

 しかし、そんな問題以上に私が納得できなかったのは、なぜそのときのありのままの風景を撮らないのか、ということである。足回りを覆い隠すほど伸び切った雑草をかすめて行く列車こそ、まさに「夏の列車」なのではないのだろうか。そんな緑多き鉄道風景を捉えられることが、私には羨ましくて仕方ない。

 もちろん、写真の撮り方は人それぞれだから、あまり他人のブログについてどうこう言うのは良くないとは思っている。ましてや自分がお気に入りにしているブログである。悪くは思いたくない。

 それに、私のような考えの方がおそらく希有でおかしなものだということもわかっている。世の趨勢は「鉄道風景写真」ではなく「鉄道写真」だ。風景ではなく、列車そのものを「きれいに」撮ってなんぼである。

 そういう意味で、私にはきっと「鉄道写真」というものは撮れないのだろうし、また「撮り鉄」と名乗ることもおこがましくてできないのだろう。

 もっとも私は、自ら「撮り鉄」を称する気もない。そんな分類の定義に、自分の想いを縛られたくないからである。前にも「惜別」の話題で書いたが、私は何鉄でもなく、自分の好きなように、鉄道というものを捉えていくつもりである。


特急「成田エクスプレス」
1枚目 成田エクスプレス33号 山手貨物線渋谷駅~新宿駅にて 2010.8.15
2枚目 成田エクスプレス25号 山手貨物線渋谷駅~新宿駅にて 2010.4.29

by railwaylife | 2010-08-25 23:30 | E259系 | Comments(0)

「さくら」と「みずほ」

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 今日の昼休み、会社で安くてマズいコンビニの弁当を食べながらネットのニュースをぼうっと見ていたら、九州新幹線の話題が載っていた。何でも山陽新幹線からの直通に速達タイプの列車を設けるという話であった。その列車は、新大阪~鹿児島中央間を3時間台で結ぶという。これは、航空機との競争を意識してのことだそうだ。

 そして、その速達タイプの列車の名は「みずほ」になるらしいと書いてあった。すなわち、すでに同区間を走る列車として名前の決まっている「さくら」と、九州新幹線内で運転される予定の「つばめ」と合わせて、東海道・山陽新幹線の「のぞみ」と「ひかり」と「こだま」のような関係になるという話であった。

 二年前に山陽・九州新幹線直通列車の愛称を募集したとき、なぜこの看板列車となるような「のぞみ」タイプの列車名を公募しなかったのか、まったくもって疑問であるが、それ以上に私が驚いたのは、言うまでもなくこの「みずほ」という愛称である。これもまた、すでに新しい新幹線の愛称として決定している「さくら」や「はやぶさ」と同じく、かつての九州行き寝台特急の名だったからである。

 新幹線の愛称をめぐっては、すでにこのブログでも、山陽・九州新幹線の直通列車名募集のときや、東北新幹線の新青森行き列車名決定のときに、私の想いを綴ってきたけれども、かつての寝台特急の名が用いられることには、やはり強い抵抗を感じる。それは、私が幼い頃からそれらの愛称を「寝台特急」のものとして慣れ親しんできたからであろう。その寝台特急を淘汰する一因ともなった新幹線に愛称を持っていかれるのは、本当に面白くない。

 だから、今日このニュースを見たときにも「またかよ」という言葉が私の頭には浮かんだが、同時に私には、なぜJRがそこまで昔の列車の名にこだわるのだろうか、という疑問もわいてきた。

 考えてみるとそれは、かつての列車の栄光を新しい列車に受け継ぎたいからではないか、という答えに行き着いた。JRの人々には、昔からの伝統を大事にしたいという思いが強いように感じる。

 だが、その割には「さくら」にせよ「はやぶさ」にせよ「みずほ」にせよ、伝統ある列車を散々ほったらかしにして、旧態依然とした姿のまま生き恥を晒させたという歴史がある。それで九州行き寝台特急はリストラの憂き目に遭い、その血祭りに真っ先にあげられたのが、他ならぬ「みずほ」であった。そんな過去もある。

 とは言え、再び「さくら」と「みずほ」が並び立つというのも、何かの因縁を感じる。かつて「さくら」と「みずほ」は、東京から長崎という同じ地を目指す列車だったからである。もっとも、片割れの行先は「さくら」が佐世保で「みずほ」が熊本と、それぞれ違っていたけれども、その分割を行うために、両列車には同型の14系客車が用いられていた。そんな面でも、昔の「さくら」と「みずほ」には、兄弟分のようなところがあった。

 ただ、兄弟分といっても、どちらかというと「さくら」が兄貴分で「みずほ」が弟分というイメージがあった。というのも、戦前の「櫻」という愛称からの歴史を引き継ぐ「さくら」に対し、もう一方の「みずほ」はだいぶ後発の愛称だったからである。また、寝台特急「さくら」は、九州行き寝台特急の先陣を切る栄光の1列車だった期間もあり、ブルートレインの代表格みたいな存在でもあった。それに対して「みずほ」は、長崎行き「さくら」と、熊本を通る「はやぶさ」を補完するような列車という印象があった。

 だから今日、九州新幹線のいわゆる「のぞみ」タイプに「みずほ」が設定され、また「さくら」が「ひかり」タイプになるという話が載っていたことには、何だか昔と立場が逆転してしまったみたいな感じがあり、非常に強い違和感を得た。

 しかし、こうやって過去のことをあれこれ言ってみても仕方ないのだろう。そんな昔話なんてお構いなしに、新幹線の歴史は作られていくものだ。そしていつの間にか、どちらの愛称も新幹線の名として定着していくのだろう。

 それでも、私にとっての「さくら」や「みずほ」は、いつまで経っても、幼い頃に憧れた、あの青き列車のままである。冒頭に掲げた古ぼけた写真にあるように、幼くてまだ純粋だった私は、まるで洗脳されるかのように、この青き列車の姿を頭に刷り込まれたからである。その記憶は、たとえ何遍頭をはたかれようと、たとえどんなに頭がぼけようとも、死ぬまで消えるものではない。きっと私が痴呆にでもなったら、東京駅を徘徊して「寝台特急「みずほ」はいつ来るんかのう」などと言って、若い駅員を困らせるだろう。

 とは言え、近い将来、鉄道で九州を旅するとしたら、否が応でも新生「さくら」や「みずほ」に乗せられることになってしまうのだと思う。それしか手段がなくなってしまうからである。他の代替手段をズタズタに切り裂いて、新幹線に乗らざるを得ない状況を創出する。それが彼らのやり方である。


寝台特急「みずほ」と私 東海道本線品川駅にて 1978~1979頃

by railwaylife | 2010-08-24 22:57 | 寝台特急 | Comments(0)