カテゴリ:昔の写真( 26 )

キハ35系

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 子供の頃、ディーゼルカーという車両は必ずボックスシートを備えているものだというイメージがあった。

 それは、家族旅行で何度か連れて行ってもらった地方ローカル線に乗ったときの印象が強かったからだと思う。当時はキハ58系やキハ40系などが主役で、もしかしたらキハ20系にも乗ったかもしれない。それらはいずれもボックスシートを備えていて、そこに座りながら豪快なエンジン音を耳に緑多き風景を眺めるというのがディーゼルカーの旅の在るべき姿だと思っていた。

 だから、ロングシートしかないディーゼルカーに乗り合わせたときにはけっこうがっかりしたものであった。

 そういう、ロングシートしかないディーゼルカーの代表格がキハ35系という車両であった。

 首都圏では相模線・川越線・八高線などで使用されていたが、それらの路線に乗ったときの印象はあまり良いものではなかった。窓に背を向ける形で腰掛けなければならないロングシートではせっかくの車窓風景がよく見えなかったからだろう。

 そんなキハ35系が走っていた路線のほとんどは電化され、車両も新しい電車に変わった。今思えば、ディーゼルカー時代に乗っていたこと自体が貴重な経験であった。

 だから、もうちょっとその乗車を楽しんでおけば良かったかなと思うが、やはりロングシートのディーゼルカーはあんまり好きじゃなかったというのが、私の一番大切な思い出である。


キハ
35系気動車 川越線高麗川駅にて 1985.2.11
by railwaylife | 2012-12-10 23:35 | 昔の写真 | Comments(0)

原宿駅宮廷ホームにて

 以前に載せた「宮廷ホームを見ながら」という記事で、私は原宿駅宮廷ホームに過去二回入ったことがあると書いたが、その二回の日付はいずれもはっきりしている。

 一回目は1979年(昭和54年)5月13日のことである。中央快速線の201系電車が初めてお披露目されたときである。そのときのことは以前の「省エネ電車」という記事に書いている。

 そして二回目は1987年(昭和62年)3月22日のことである。このときも、ある車両のお披露目会だったのだが、それについては今まで記したことがなかったので、書いておこうと思った。





 このときお披露目の展示がされていたのは「パノラマエクスプレスアルプス」という車両である。
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 先の「宮廷ホームを見ながら」の記事で私は、宮廷ホームへ入ったのはいずれも新型車両のお披露目会のときだったと書いてしまったが、この「パノラマエクスプレスアルプス」は、純然たる新型車両ではない。165系という急行型車両からの改造車である。

 でも、国鉄末期のこの時期は、ジョイフルトレインと呼ばれる改造車両が盛んに作られ、華々しくデビューしていた時代である。そのお披露目の舞台として原宿駅宮廷ホームはうってつけの場所であっただろう。

 写真では宮廷ホームであることがちょっとわかりにくいが、右上にちらっと見える和風の照明などが宮廷ホームらしいかななんて思う。

 さて、この「パノラマエクスプレスアルプス」はその名の通り眺望の良い車両で、大きな側窓と先頭車両の展望スペースが特徴であった。おもに中央本線で活躍したと思うが、私は本線上で乗る機会もなく、何度か目にしたことがあるだけで引退を迎えてしまった。

 だが、この車両にはまだ乗ることができる。JRで引退した後、富士急行に譲渡され、現在も「フジサン特急」として活躍しているからである。富士山に一番近い鉄道として売り出している富士急行を走るにはぴったりの車両だろう。

 その「フジサン特急」も「パノラマエクスプレスアルプス」として改造されてからもう25年も経つのだから、元の165系として製造されてからの歴史を考えれば、ずいぶんと長生きの車両である。


165系電車改「パノラマエクスプレスアルプス」 山手貨物線原宿駅にて 1987.3.22
by railwaylife | 2012-10-28 21:15 | 昔の写真 | Comments(0)

ワインレッドの心

 JRの115系といえば、今でこそ各地区でさまざまな塗装を施され、文字通りいろいろな色の車体を目にすることができるが、国鉄の車両としてデビューした当時には、湘南色とスカ色くらいなものであった。

 そんな115系にも、国鉄末期になると地区ごとに独特の塗装を纏った車両が現れるようになった。

 そのひとつが、身延線に現れたこの塗装である。
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 そもそもこの115系は、それまで身延線に走っていた「旧型国電」と呼ばれる古めかしい車両群を置き換えるために導入されたものだったと思う。

 その「旧型国電」が纏っていたスカ色からすれば、新しい115系の塗装はなんとも派手なものだったと言える。

 たしか、身延線がワインの産地でもある山梨県を通ることからこのワインレッド色が選ばれたはずである。

 ただ、このワインレッド色での活躍はそう長くなかったと思う。JRになって程なく、身延線の115系は湘南色にされてしまったように記憶している。湘南色には、JR東海のコーポレートカラーであるオレンジ色が入っていたからという理由ではなかったかと思うのだが、その辺りの記憶はあやふやである。

 そんなわけで、私もあまり目にしたことがなかったので、この「消えそうに燃えそうな」ワインレッドの記憶を、ここにしっかりと記しておきたいと思う。

 ところで、上に掲げた写真はなんだかトリミングしたみたいになっているが、これはもともとこういう写真である。なにせ二十年以上前の写真なので、なんでこんな撮り方をしたのか撮った自分にもわからないが、私にとっては大切な思い出なので、ここにそのまま載せておきたい。


身延線
115系電車 身延線十島駅にて 1988.1.6
by railwaylife | 2012-10-15 21:50 | 昔の写真 | Comments(2)

レッドトレインの思い出

 赤と青、レッドとブルーといえば、互いに相競い合う何か二つのものを象徴的に対比するために用いられる色だが、ブルートレインに対してレッドトレインというのは実に地味な存在であった。

 それは、夜を駆けて遠い都市間を結ぶ華やかな寝台特急の愛称である青のブルートレインに対して、赤のレッドトレインが地方の鈍行列車に用いられた車両の愛称だったからである。
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 このレッドトレインの愛称を持つ50系客車が登場したのは、国鉄も末期のことであった。それまで地方の鈍行列車といえば、茶色や青色の旧型客車で運行されていたが、そうした車両は当時すでに文字通り「旧型」になっていて、設備も古びていた。何より問題であったのは、乗降のドアが自動ではなかったことであろう。走行中もドアが開きっ放しになっていて、乗客が転落することさえあった。

 そうした安全性の問題の対策も含めこの50系客車が導入されたのだと思うが、当時かろうじて旧型客車の旅を味わうことができ、その雰囲気に子供なりに「古きよき時代」を感じていた私としては、そんな味のある旧型客車を追いやってしまう50系客車が憎い存在であった。

 旧型客車から見れば、50系客車の設備は比べ物にならないほど近代的に感じられた。乗降のドアはもちろん自動だし、車内の座席なども当時最新の近郊型電車や気動車に準じたものであった。そのため客室の端にはロングシートも設けられていたが、かつての急行型のお下がりなどもあった旧型客車の設備をちょっとでも知っていた私からすれば「客車列車にロングシートなんて」という気がしたものである。旧型客車の中にも、改造されてロングシートが付いていたものもあったようだが、そういう車両にあまり巡り会わなかった私には「客車列車=ボックスシート」という概念が染み付いていた。

 そんなこともあって、何かと敵視していた50系客車であったが、かわいそうなことにその活躍の期間は短かったように思う。というのも、国鉄末期の改革によって鈍行列車の運行形態が見直され、短い区間を短い編成で行く列車が多くなったためである。そうなると、折り返し駅で機関車を付け替えたりする客車列車は、手間のかかる存在になってきた。そこで、鈍行列車が次々と電車化や気動車化され、50系客車は働き場を失っていくことになった。

 それでも、JR化後しばらくは各地の鈍行列車として走っていた。そのため私も気の進まぬまま何度か50系客車の旅をすることになった。

 ただ、その後も鈍行列車の電車化・気動車化の波は進み、JRになって十年も経つ頃には、その存在自体が稀少化していた。言い換えればそれは、客車鈍行列車そのものが珍しいものになったということであった。

 そうなると、50系が好きとか嫌いとか言っている場合ではなくなった。機関車の牽く鈍行列車に乗れること自体が稀有なことであるし、やがてそれらも消えていくわけであるから、乗っておかなければならない、乗っておきたい、そして少しでも昔の旧型客車での旅を再現してみたい、そんな想いに駆られてきたものだ。人間とは勝手なものである。

 しかし、私がそう思ってから50系客車に乗ったのは一回か二回かだったと思う。だから、あまり50系客車の旅を楽しんだいう思い出はない。

 今にして思えば、それは残念なことである。もっと純粋に、客車列車の旅を楽しめば良かったのになあという気がする。

 そんな多少の後悔とともに、私の50系客車の思い出はある。


50系客車「レッドトレイン」
1枚目 磐越西線喜多方駅にて 1995.7.31
2
枚目 久大本線大分駅にて 1999.2.5
by railwaylife | 2012-10-03 22:40 | 昔の写真 | Comments(4)

青い客車

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 青い客車、といえば、今はブルートレインのことを指すと言っても良い。あとは細々と生き残る12系や14系の座席車のことを言うくらいであろう。

 しかし、ふた昔前くらいには、それ以外にも青い客車があった。旧型客車と呼ばれる一群である。

 旧型客車、といえば、茶色というイメージが強い。実際、現在もイベント用として残る旧型客車はほとんどが茶色である。その色が「旧型」というイメージを醸し出すわけだが、私が見た現役時代の旧型客車は、茶色と青色が半々くらいの割合であった。そして、茶色だけの編成、青色だけの編成もあれば、茶色と青色が混結している編成もあった。私は茶色い客車への思い入れが強かったが、青い客車もけっこう気に入っていた。

 そんな青い客車の中で、私が最も印象に残っているのは、常磐線の鈍行列車である。上野から水戸・平(現在のいわき)方面の普通列車は私が幼い頃、青色の客車列車であった。そして、あの寝台特急「ゆうづる」と同じピンク色のEF80形電気機関車が牽いていた。

 その列車が、上野駅から重々しく北へ向かって旅立っていた。青くて古い客車が都会を発つさまは、当時でさえ何だか隔世の感があった。今の常磐線のE531系電車とは比べようもない古めかしさである。それでも、家族旅行でこの青い客車に何度か乗ったことのある私にとっては、良き思い出である。

 だが、青い客車の末路は哀れであった。国鉄の消滅と前後して次第に現役を追われていった青い客車は、幹線沿いの側線で野ざらしになっていた。私はそんな客車をあちこちで見かけた。常磐線沿線はもちろん、山形県内の奥羽本線沿線、九州の鳥栖駅でも目にしたのを覚えている。かつての鮮やかな青は色褪せ、何とも無残な姿であった。 

 私の脳裏に残るその青い客車を眼前に蘇らせてくれるのが、冒頭に掲げた写真である。ただ、これは私が撮ったものではない。この写真を撮ったのは、私の大伯父(母方の祖母の兄)である。



 山が好きで旅が好きで、国内外を問わずあちこち出かけていた大伯父は、鉄道にもただならぬ興味があって、昔の鉄道の話を私にいろいろとしてくれた。そしてこの写真も、黒部峡谷へ行った大伯父が私のために撮ってきてくれたものである。だから、私にとってはとてもとても大切な写真である。
 
 そんな大伯父の命日が一昨日10月5日であった。亡くなってから今年で十一年が経つ。もちろん私は命日をちゃんと覚えていて、仕事から帰ったら実家にある仏壇に手を合わせようと思っていた。

 ただ、考えてみると今の私の勤務地は大伯父のお墓に近いなということに気が付いた。大伯父のお墓がある寺は、丸ノ内線の新高円寺駅のすぐ近くだ。私の勤務地である荻窪から新高円寺までは、わずか二駅四分である。それなら、通勤の途中にも寄れるし、昼休みにだってお参りに行ける。

 だが、そのことに思い至ったのは一昨日の昼休みも終わろうとする頃であった。だからもう、その日に墓参をすることは叶わなかった。日の暮れた仕事帰りでは、お寺も閉まっているだろう。私は、ひどく不義理をしてしまったように感じた。

 それで私は、昨日10月6日の昼休みに、新高円寺へと向かった。

 荻窪の駅には花屋があるので、そこでお供えの花を買って行きたかったが、あいにくそこはオシャレな花屋で、仏花などはなかった。仕方なくちょっとシャレた花束にでもしようかと思ったが、昼休みに花束を手に地下鉄に乗るのも何だか気恥ずかしかったので、手ぶらで荻窪駅を後にした。

 わずかな地下鉄の乗車で新高円寺駅に着く。
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 何度も墓参りに来ているので、駅から寺への道はよく覚えている。ただ、寺に着いて大伯父の墓前に立ってみると、ひどく久しぶりの訪問のような気がした。私は前日に来られなかった非礼をまず詫びながら、手を合わせた。

 お参りを終え、目を開けて顔を上げると、秋空が広く見えた。
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 スーツの上着を着込んできたので、暑く感じられたけれども、境内に吹き抜ける風はやけに冷ややかであった。

 しばらく墓前に佇んで、寺を後にしようとすると、金木犀の香りがほのかに鼻をついた。見れば、奥まった墓所に大きな金木犀の木があった。大伯父の命日は、金木犀の香る季節でもある。
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 墓前でゆっくりしすぎた所為か、昼休みの時間が残り少なくなってしまった。駅前へ戻って慌ててハンバーガーに食いつき、地下鉄で荻窪駅に戻ると、午後の始業開始の五分前であった。職場まで駆け出さんばかりに急ぎ足で向かいオフィスに着くと、ちょうど午後の仕事が始まる時刻であった。何とも慌しい昼休みになった。

 先日の祖母の話と、この大伯父の話が続いてしまったが、私にとって初秋とは、ことさらに強く亡き人を想う季節であるように感じる。それに、祖母にしても大伯父にしても、この私の「レィルウェイライフ」に多大な影響を及ぼした人であるから、敬意と謝意を込めて、ここにその想いを記しておきたいと思う。



 さて、青い客車の話に戻ると、今でも静岡の大井川鐵道に行けば、動く青い客車が見られるようである。蒸気機関車の走るこの鉄道にはずっと行きたいと思っていながら、なかなか訪れる機会がない。そんな大井川鐵道へ、青い客車への想いを胸に、近いうちに訪れることができたらいいなと思っている。


1枚目 青い客車 北陸本線富山駅にて 1987.5.9

by railwaylife | 2010-10-07 22:36 | 昔の写真 | Comments(0)

食パン電車

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 今から二十年以上前の国鉄末期のこと、それまで「旧客」と呼ばれる茶色や青色の旧型客車で運行されていた普通列車が、電車に置き換えられることになった。しかし、赤字国鉄のことゆえ、新型車両の導入は望めなかった。そこで、白羽の矢を立てられたのが、特急列車の削減で余剰となっていた、583系寝台特急電車である。

 この583系は、夜は寝台特急、日中は昼行特急として、それこそ昼夜を分かたず働いてきたが、そんな車両が近郊型電車に改造されることとなった。とは言っても、さほど大掛かりなものではなく、車端部にロングシートが付け加えられたくらいであり、下段の寝台にも早変わりする大きな座席や、上中段の寝台を収納する座席上の大きなカバーなどはそのままであった。

 ただ、編成の長い特急車両を近郊型用に短編成化したために、先頭車両が足りなくなったのか、改造後の編成の片方は、中間車両に「顔」を取り付けたものとなった。その顔は写真のように、平面にとりあえず目と鼻と口を付けました、みたいなもので、デザインも何もないあったものではない先頭車であった。そんな平面顔が食パンに似ているところから、この改造車をファンの間では「食パン電車」と呼んだりしているようだ。

 私は、この「食パン電車」という呼び方があまり好きではない。その名の由来となった平面顔が気に入っていないからであろう。それよりも私は、寝台特急電車の面影を残した、もう片方の顔の方が好きであった。

 その「食パン電車」の正式名称は、北陸地方に導入されたものが419系、九州地方と東北地方に導入されたものが715系と名付けられ、各地でローカル列車として走っていた。

 私がこの「食パン電車」に初めて乗ったのは、1986年3月31日のことである。東北本線の郡山発12時29分、132M普通黒磯行きでの715系1000番台への乗車であった。これは家族旅行で水戸の偕楽園へ行った帰途でのことである。なぜ常磐線沿いの偕楽園に行ったのに、帰りに東北本線に乗っているかというと、水戸から平(現・いわき)に行き、そこから磐越東線で郡山に出て、東北本線で帰ってきたためである。何ともマニアックな旅程であるが、その帰り道の途中でよく覚えているのは、平駅構内の通路で行先表示板(サボ)が売られていて、それを父が衝動買いしたということである。今考えると、ある意味いい時代であった。

 話は少しそれたが、私はこの715系1000番台の初乗車が余程嬉しかったらしく、旅行のノートに車内の様子などをこと細かにメモしていた。

 それは、窓が二重になっていること、また、窓の脇のハンドルを回すと二重窓の間にブラインドが下りてくること、それから座席の背もたれにカバーを付けるためのマジックテープがあるが、あまり粘着力がなかったことなどである。

 そして、そのとき描いた715系1000番台の絵がこれである。
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 やはり、食パン顔の方ではなくて、特急顔の方をちゃんと書いている。

 これだけ715系1000番台が気に入っていたのは、寝台特急電車として憧れであった種車の583系に対する想いが強かったためであろう。当時まだ寝台特急「はくつる」や「ゆうづる」として活躍していた583系は、乗ろうと思ってもなかなか乗れる車両ではなかった。そんな車両に、改造車とはいえ、乗ることができた。きっと少年の私は、すっかり583系に乗った気でいただろう。その歓びはきっと、大きなものだったに違いない。

 しかし、こんな改造車への乗車を喜ぶのは私くらいなもので、一般的には「食パン電車」の受けは良くなかったと思う。というのも、寝台電車の独特の造りを残した車内設備は、やはり近郊型電車には不向きだったからである。

 何より問題なのは、乗降のためのドアである。583系時代から変わらない折り畳み式のドアは、幅が狭い。また、ふつうの近郊型車両なら片面に最低三つはあるドアが、この車両には二つしかない。そのため、駅での乗降には非常に時間がかかることになってしまった。

 最初の乗車から何年か後、私は東北本線の普通仙台行きでこの715系1000番台に再び乗ったことがあった。終着駅の仙台が近づくにつれ、だんだんと車内が混み合ってきたが、そのとき私は、まさにこの車両の乗降の不便さを目の当たりにしてしまった。

 近郊型電車の乗客の特徴でもあるが、後から乗ってきた客は、なぜか車両中央のボックスシート付近へ入って来ないで、出入口近くのロングシート付近に溜まる。すると、ただでさえ狭い出入口の辺りが余計に通りにくくなって乗降に時間がかかるようになってしまった。そこで、各駅での停車時間はかなり長いものとなった。列車がどのくらい遅れたか、記憶はないが、とにかく車両の構造上の問題で列車の運行に遅延が生じたことは確かであった。この車両では、運行する側も乗る側もストレスが溜まるだろうなと思った。 

 そんなこともあってか、この「食パン電車」の一族は、意外と早く淘汰されてしまったように思う。国鉄からJRになって、各社がより機能的な新型の近郊型電車を導入するようになったという事情もあった。

 不都合の多い車両ながらも、普通列車にして寝台特急電車気分が味わえるという意味で気に入っていた私としては、寂しい想いだったが、幸いにして北陸地方の419系だけは、いまだに現役で走っている。

 国鉄末期に急造された車両が、JRになって二十余年を経てなお現役であるということは、言ってみれば奇跡に近いのかもしれないが、私にとっては嬉しいことである。

 ただ、この419系も「デカメロン」と同様に、後継車両の登場によって先行きは長くないようだから、喜んでばかりもいられない。やはり、早いうちに北陸地方へ行って「食パン電車」に会い、寝台特急電車気分の旅を味わっておきたいものである。


「食パン電車」419系 北陸本線直江津駅にて 1989.1.15

by railwaylife | 2010-07-09 23:54 | 昔の写真 | Comments(2)

デカメロン

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 むかし、113系に代表されるような、いわゆる「湘南型」の顔をした近郊型電車は、現在よりもずっと前照灯(ヘッドライト)が大きかった。いま、その顔を写真などで見るとびっくりするくらい大きいが、そんな前照灯はシールドビームという技術の導入により、次第に小さなものへと替わっていった。新造される車両はもちろん、もともと大きな前照灯を付けていた車両もシールドビームの小さな前照灯へと付け替えられ、大きな前照灯を付けた車両はどんどんと少数派になっていってしまった。

 それでも、私が小学生くらいの頃には、まだまだ各地で大きな前照灯を付けた近郊型電車を見ることができた。ただ、やはり少数派であったから、当時の私はそういう車両を珍しがっていて、この大きな前照灯を付けた車両のことを鉄道好きな友達同士の間で「デカ目」とか「デカメロン」とか呼んでいたような記憶がある。

 最初の「デカ目」はいいとしても、もう一つの「デカメロン」とは何なのだろうか。今考えると不思議である。それで私は「デカメロン」をネットで検索してみることにした。どうせ果物のメロンのでっかいやつが画像で出てくるんだろうというくらいに予想していたが、初めに出てきたのは「ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集。ダンテの神曲に対して、『十日物語』や『人曲』とも呼ばれる」というウィキペディアの説明で、何だこりゃと思った。子供がこんなものを知っているはずがない。

 しかし、もう少しいろいろ見ていくと、かつて「デカメロン伝説」という歌謡曲のあったことがわかった。そして、この曲のリリースされたのが1986年だという。まさに私が小学校高学年のときだ。おそらく友達の誰かが、この曲名に影響され、もともと「デカ目」と呼んでいた前照灯の大きな車両のことを「デカメロン」と呼び始めたのではないだろうか。子供はすぐそういうのに影響されてしまうものである。私は、何だかようやく「デカメロン」の意味が腑に落ちたような気がしてきた。

 そんな時代から二十余年が過ぎ、今の首都圏では本線上で「デカメロン」を目にする機会はまったくなくて、わずかに大宮の鉄道博物館に展示されている455系にその大きな目玉を見ることができるくらいである。
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 だが、北陸地方では、この「デカメロン」がまだ現役である。ただ、その余命も長くないようだから、近いうちに北陸地方へ行って、現役の「デカメロン」を見ながら、子供の頃を懐かしんでみたいものだとは思っている。


「デカメロン」たち
1枚目 東海道本線米原駅にて 1989.4.2
2枚目 北陸本線敦賀駅にて 1989.4.2
3枚目 東北本線黒磯駅にて 1991.8.29
4枚目 鉄道博物館にて 2008.10.2

by railwaylife | 2010-07-08 23:49 | 昔の写真 | Comments(2)

むかしの能登

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 この土日は、早起きして上りの急行「能登」と寝台特急「北陸」を見に行こうかと思っていた。実際、土曜日は朝早くに起きたが、外の雨音を聞くうちに何だか行く気が失せてしまった。また日曜日は、前夜の北陸本線内の架線トラブルの影響により「能登」も「北陸」も二時間近く遅れていることがわかっており、多少ゆっくり出かけても十分に間に合ったはずであったが、やはり雨の天気で出かけるのをやめてしまった。

 今の時期、定刻であれば「能登」も「北陸」も日の出時刻前後に着いてしまうわけだから、理由はどうあれ遅れているとなれば、明るい空の下で列車を捉えることができるチャンスであった。だが、今さら慌てても仕方ないと思った。そんなに明るいときに撮りたいのであれば、日の長い昨年のうちに撮っておけば良かっただけの話である。そんなふうに思って寝床から出なかったが、単に朝寝坊したかっただけかもしれない。

 また、雨なら上野駅にでも行けば良かったわけであるが、実は上野駅に行くのはためらわれていた。というのも、土曜日朝にネットの掲示板で急行「能登」の発着番線が変わるらしいという情報を得ていたからである。

 それによると、急行「能登」は2月27日から定期運転の終了まで、発車番線は16番線は13番線に、到着番線は16番線から15番線に変更されるということであった。

 今までの特急・急行専用ホームの16番線から、誰でも出入りできる13・15番線に移ったとなれば、気軽に行けるようになったぞと喜ぶ人もいるかもしれないが、そんなふうに思ってはいけない。この時期に発着番線を変えるというのは、どう見ても「能登」と「北陸」に群がるファンへの対策であろう。今回の変更により「能登」も「北陸」も同一ホームに発着するようになるわけで、そのことからは、ファンを一箇所にまとめて警備しやすくするという意図が感じられる。

 ここまで対応をするということは、もはや上野駅に「能登」や「北陸」を見に行ってはいけないということだと思う。人が増えれば増えるほど、運行する側に迷惑がかかるだけだ。それに、こうなったということは、もはやそこは「非日常」の世界である。そんなところへは行きたくない。しかし、来週の日曜日の朝は「北陸」の乗客としてその上野駅に降り立つことになる。いったい、どんなことになっているのかと不安である。

 ところで、話は変わって、この前昔撮った写真を見ていたら、十年前の急行「能登」の姿があった。今と同じボンネット型の489系であったが、その車両の色が違っていた。白いボディに青色とピンク色の模様が入っている。そういえばこんな塗装だったなと思い出した。

 それにしても、いつ頃何の契機で「能登」の489系が今の国鉄色に戻ったのかは知らないが、引退を迎える今、このボンネット型車両が旧来の国鉄色で良かったと思う。十年前の塗装よりは、ずっとずっと良い。

 思えばこの489系を始め、国鉄時代にクリーム色のボディと赤い帯という出で立ちだった多くの特急型車両が、JR化後に実にさまざまなカラーリングに変身したものである。そこには旧来の「こくてつ」のイメージを脱却しようというJR各社の強い意志が感じられた気がする。

 中でも衝撃的だったのは、JR九州の「RED EXPRESS」だろう。車体が真っ赤に塗られ、鮮烈な印象を与えた。しかし、特急「みどり」の車両まで真っ赤になってしまった。それは俗に「赤いみどり」などと呼ばれていたが、いったい赤なのか緑なのかはっきりしてくれと言いたくなったりもした。

 その「RED EXPRESS」を始めとして、旧国鉄の特急型車両の塗装は千差万別となったわけであるが、残念ながら国鉄のオリジナルのカラーを超えるような塗装は現れなかったように思う。それだけオリジナルのカラーが洗練されたものであったとも言える。

 そんな国鉄色の特急型車両も、急行「能登」の489系の引退により、いよいよ上野駅の定期運用から姿を消そうとしている。もちろん、ダイヤ改正後の臨時急行「能登」にも、新潟車両センターの485系の国鉄色が入ると見られており、完全な消滅とは言えないが、運転される日は少なくなるし、臨時列車だけにいつ運転されなくなってもおかしくない存在である。幼い頃によく見ていた上野駅の国鉄色特急型車両の姿も、ついに見納めのときなのかもしれない。


489系急行「能登」 東北本線上野駅にて 2000.8.19


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by railwaylife | 2010-03-01 00:52 | 昔の写真 | Comments(0)

上野駅のボンネット型

 ここ最近ずっと、3月のダイヤ改正で急行「能登」の運用から外れ、定期運用が消滅してしまうボンネット型の489系を、上野駅でじっくり眺めたいものだと思っていた。

 しかし、急行「能登」が発着する16番線は、特急・急行専用ホームで、特急券か急行券を持っていないと入れるものではない。だから、乗車券しか持っていなければ、となりの15番線ホームから線路越しに眺めるしかない。

 たしか十年くらい前には、上り「能登」は13番線に到着し、特急券や急行券を持っていなくても気軽に近付けた記憶があるが、いつからか16番線に変わっていた。到着ホームを変えたのは、ボンネット型車両に群がるファンを遠ざけるためではないかと思ったりしたが、そんなことが理由ではなく、乗客の急行券をきちんとチェックするためであろう。

 とにかく急行「能登」のボンネット型車両には容易に近付けなくなっている。だが、何とかして16番線ホームに入ろうと、私はいろいろと考えた。一番良いのは急行「能登」に、上野から一番近い停車駅である大宮まで乗るか、大宮から乗って来ることであるが、大宮まで乗ってしまうと終電で帰宅することはできなくなり、大宮から乗るには家から始発で駆けつけても間に合わない。

 だったら、16番線かとなりの17番線に発着する他の特急列車に乗ることにして、そのホームに入れば良いとも考えたが、そのためにわざわざ特急券を買ったりするのが何だか馬鹿らしくなってきた。

 それに、489系という車両そのものをじっくり見たいのであれば、別の方法があった。その方法とは、急行「能登」用の489系が間合い運用で使用されているホームライナーを見に行くというものである。489系は、上野発18時40分の「ホームライナー鴻巣」3号と、上野発21時03分の「ホームライナー古河」3号に使用されている。これらの列車の発車番線は、通勤列車用のホームである8番線であり、乗車券さえあれば自由に出入りすることのできるホームだ。だから、じっくりと489系が見られるだろう。

 ただ、ホームライナーは平日しか運転されない。18時40分だと、仕事を定時に切り上げて上野駅に駆け付けたとしても間に合わない。でも、21時03分なら余裕を持って上野駅に行ける。そこで私は「ホームライナー古河」3号を見に行くべく、金曜夜の上野駅に向かった。

 20時30分頃に8番線へ行くと、帰宅ラッシュでそわそわするホームに、ボンネット型の489系が厳かに入線してきた。風格のある国鉄色の車体は、古めかしいが気品にも溢れていた。
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 そんな姿は良いとしても、ヘッドマークのデザインは、どうもいただけない。色が良くないし、何となく見にくい。どうせ字だけのヘッドマークなら、白地に黒字で「ホームライナー」と大きく表記し、その下に赤字で小さく「HOMELINER」と入れて、国鉄時代のヘッドマークみたいにしたらいいのに、などと思ってしまう。

 そういうわけで、なるべくヘッドマークを入れずに、ボンネット型車両を撮ってみた。
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 それにしても、長く使い続けてきた車体は何だか痛々しい。老朽化による引退というのも、やむなしといったところだ。よくぞこの車体で、北国の厳しい風雪に耐え、夜通し走っているものだと感心してしまった。

 また、ボンネット型の前面には今でもデザイン的に斬新なイメージはあるが、やはり全体的には、いかにも古い車両という印象が否めない。その古さは、となりに停車している新鋭のE531系と比較すると、余計に際立ってくる。よく今日までこの車両が現役で残ったものだと思う。

 そんな感想を持ちつつも、私はボンネット型の489系の姿を、幼い頃見た上野発の特急電車に重ねていた。この8番線を含む、高架上のいわゆる「高いホーム」は、今でこそ通勤列車専用のホームになっているが、かつてはここにも、ひっきりなしに優等列車が発着していたものである。その幼い頃の記憶が、今いる489系によって、鮮明によみがえってくる。幼い私の心に、強烈な憧れを植え付けた、上野駅の特急電車たちの姿である。

 だが、そんな光景を思い出させてくれる489系も、あとわずかで上野駅から姿を消すことになる。やはり、残念でならない。

 21時03分の発車までの間に、私は惜別の念を込めながら、じっくりとボンネット型車両を眺めることができた。ただ、3月までの間には、あと何度か急行「能登」の姿を見に来たいと思っているので、これで見納めではないような気がした。  

 それでも私は、上野駅のボンネット型車両の姿を、しっかりと記憶の中に仕舞い込んだ。


489系「ホームライナー古河」3号 東北本線上野駅にて 2010.1.22



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by railwaylife | 2010-01-23 01:41 | 昔の写真 | Comments(0)

上野発の急行列車

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 先週末は早朝に寝台特急「北陸」と急行「能登」を見に行こうとそわそわしていたが、今週末はその必要がない。土曜朝着と日曜朝着の両列車が、大雪の影響で運休になってしまったからである。運行情報の詳細を見てみると、上越線や信越本線が雪の影響をひどく受けているらしい。改めて、北国の冬の厳しさを知る思いである。今夜は「北陸」と「能登」に加え、寝台特急「あけぼの」と「日本海」と「トワイライトエクスプレス」と急行「きたぐに」も運休だという。日本海側を通る夜行列車は、軒並動いていない。こんな夜は、何となくむなしい気分になるものである。

 ところで、昨日発売の雑誌「鉄道ダイヤ情報」を書店で立ち読みしたところ「JRグループ  2010(平成22)年3月13日ダイヤ改正概要」に、急行「能登」について次のような記述があった。

489系金沢車9両で運転している急行「能登」を、485系新潟車6両の臨時列車に変更する。

 昨年末にJRグループから発表されたダイヤ改正の概要を読んだ限りでは、寝台特急「北陸」と急行「能登」の両方が廃止で、別に臨時列車ができるような書きっぷりであったが、実際には新しく臨時列車ができるのではなく、急行「能登」が臨時列車として残るようである。

 ただし、使用する車両は金沢総合車両所の489系から新潟車両センターの485系に置き換わるため、ボンネット型車両が定期運用から撤退するという事実は変わらない。

 それでも、新潟車両センターの485系には国鉄色の車両があるため、上野駅からの国鉄色の特急車両消滅はかろうじて回避されることになる。しかし、485系になると、ヘッドマークはどのようになるのであろうか。489系のように絵入りマークを掲げてくれればよいが、赤字で「急行」とだけ表示されるようだったら味気ない。

 それにしても、臨時列車化というのはすっきりしないものである。定期列車で廃止となれば、廃止の日で華々しく散っていけるが、臨時列車の場合は、いつの間にか運転されなくなっていたということもある。だから、惜別も何もあったものではない。

 ともかく、急行「能登」の臨時列車化で、上野駅から定期の急行列車は消滅し、臨時の急行列車だけが細々と出発していくことになる。まさに上野発の急行列車は風前の灯である。

 だが、私が幼い頃、上野駅には特急列車とともに急行列車が溢れていた。思い付くだけでも、昼行では「まつしま」「ざおう」「なすの」「ばんだい」「ときわ」「佐渡」「よねやま」「信州」「ゆけむり」など、そして夜行では「八甲田」「おが」「十和田」「津軽」「天の川」「越前」などがあって、ひっきりなしに上野駅へ出入りしていた。それらの列車は、ヘッドマークを掲げた特急列車ほど華やかさはなかったが、幼い私にとって憧れの対象ではあった。

 しかし、多くの急行列車は新幹線開業後に急速に姿を消していった。特急列車に吸収されたり、また「新特急」というよくわからない種別に置き換えられたりもした。

 そして、今やJRの急行列車は「能登」を含めて全国に三本しかない。しかも、そのいずれもが夜行列車であり、昼行の急行列車は一本もない。もはや、急行列車はその役割を終えたと言えるのかもしれない。

 現在のJRでは、列車の種別が特急と快速・普通へ二極化している。そして、特急の一部が、かつての急行の役割を果たしているような線区もある。例えば、常磐線の特急「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」や、中央本線の「スーパーあずさ」と「あずさ」や「かいじ」などは、昔で言えば特急と急行の関係のようでもある。

 急行が特急になったのだから、サービス向上とも言えるかもしれないが、その分高い特急料金を払わなければならない。それでも、停車駅はかつての急行並みで、時間のかかる特急列車もあるから、割に合わないと思う。急行列車というのは、特急よりも時間はかかり、設備も劣るが、その分料金は安いという良さがあったわけで、そういう選択肢というのは残して良かったのではないかと思う。今では、否応なしに特急や新幹線に乗せられてしまうところがある。

 ただ、最近では料金の必要ない快速列車というのも増えてきて、それがかつての急行列車に劣らない速さを誇るものもある。また、中には「特快」などという種別もあって、そんな列車は停車駅もかつての急行並みか、急行よりも少なかったりする。

 それを考えると、やはり料金的にも設備的にも中途半端であった急行列車は、不要になってしまったのかなと思う。しかし、急行がないのに、特別な急行である特急があるというのは、不思議な状態でもある。

 とはいえ、JRから急行列車がなくなる日はそう遠くないことであろう。その日までに、急行「能登」を含め、JRの急行列車というものをしっかりと記憶にとどめておきたいと思う。


かつての上野発急行列車
1枚目 急行「なすの」  東北本線上野駅にて 1985.1.12
2
枚目 急行「まつしま」 東北本線上野駅にて 1985.1.12
by railwaylife | 2010-01-17 01:49 | 昔の写真 | Comments(0)