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ヨンサントウから五十年

 ヨンサントウ、というのは、今からちょうど五十年前の昭和43年(1968)10月1日に行われた国鉄の白紙ダイヤ改正の通称である。43年10月だからヨンサントウというわけである。

 その響きが何となく面白くて以前からこの通称は知ってはいたが、五十年が経ったのを機に改めて改正の内容を紐解いてみると、かなり画期的なものであったことがわかる。

 改正の特徴としてまず挙げられるのがいわゆる「無煙化」である。全国の国鉄路線にディーゼル機関車や気動車が多く投入され、それまで活躍していた蒸気機関車がかなり削減された。また、全国的に特急列車や急行列車が増発され都市間の輸送体系が整備された改正でもあった。現在も走っている特急「しなの」「ひだ」「にちりん」などが走り始めたのもこのときである。そして、485系、583系、キハ181系といった国鉄の特急車両を代表するような形式が登場している。

 このようなソフト面の刷新を可能にしたのが、ハード面の整備であった。幹線の軌道の強化・複線化・電化が進んだことで列車の最高速度が向上し、各列車の所要時間の短縮にもつながった。

 こうした改正が全国規模で連動し一斉に行われたのは、国鉄のダイヤ改正ならではだったと言える。今のJRグループのダイヤ改正は各社が足並みを揃えて同時に行うものの、改正内容は各地域内で完結していて、全国規模で影響し合うということはほとんどない。それだけ地域密着のダイヤ改正になったと言える。

 ダイヤ改正に限らず、今の時代は地域性が重視される。JR各社も独自の車両やサービスを次々と投入し、個性を発揮している。

 ただ一方で、どの地方のターミナル駅も似たりよったりの構造になり、その駅ビルに入るテナントも、どこへ行っても同じようなものばかりである。そういう意味での地域性は薄れたと言える。

 ヨンサントウの時代、全国を走る国鉄車両は画一的だったものの、それらの列車に乗って訪れる各地方の駅や街にはきっと、今よりも地域の個性が強くあったことだろう。

 そんな時代に、旅してみたかったものである。
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by railwaylife | 2018-10-01 00:10 | その他 | Comments(0)

江戸ヲ称シテ東京ト為ス

 慶応四年(1868)七月十七日(西暦では九月三日)、明治天皇より「江戸ヲ東京ト称ス」の詔書が発せられた。

 詔書というのは天皇が発する公文書で、広く国民に公示されるものだという。

 この詔書の中で江戸は「東国第一の大鎮四方輻輳の地」と位置付けられ、その江戸を東京と改め、明治天皇が東京で政務を執るという宣言がなされている。

 つまり、今日平成三十年(2018)九月三日で、東京が誕生してちょうど百五十年が経ったということになる。

 その東京が誕生した慶応四年(1868)七月といえば、江戸もまだまだ政情不安定な時期だったであろう。江戸城が開城されたのが四月、上野の彰義隊が鎮圧されたのが五月、そして東北では戊辰戦争がまだまだ続いていたときである。それでも「御一新」が次々と行われていたわけであるが、当時江戸に暮らしていた人々は東京という名をどう思っただろうか。使い慣れた江戸の名がいきなり東京に変わるとなったら、どんな気分だろう。現代では想像の付きにくいことだ。

 でも、このとき江戸が東京とならなかったら、いま何気なく使っている「東京」が「東京」じゃなかったかもしれない。

 東京駅も、東京駅じゃなかったかもしれない。
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 それを思うと「江戸ヲ東京ト称ス」の詔書は大事なものだ。

 さて、その東京誕生百五十周年のこの時代に生きる私が想うのは、百五十年後も東京が人の住める街であってほしい、ということである。

 ちょっと極端な話かもしれないが、最近の異様な気候や災害を考えればまんざら杞憂でもない気がする。

 それに、住めるといってもただ住居があればいいということではない。東京の文化や、歴史や風習が息づいた上に人々の暮らしが続いていてほしいということである。

 だから、誕生百五十年の東京に生きる身として、さらに百五十年後の東京のために、できることを探していきたい。

by railwaylife | 2018-09-03 00:00 | その他 | Comments(0)

私と広島

 私にとって、広島は縁浅からぬ地である。

 プロ野球に興味を持ち始めた小学校低学年の頃、好きになったチームは広島カープであった。すでにON時代は終わり、当時活躍していたのは山本浩二・衣笠祥雄を中心とする赤ヘル打線であった。そのカープの選手の活躍にすっかり夢中になってしまった。そして、見事日本一になるのを見届けることができた。

 その後、プロサッカーリーグJリーグが誕生したとき、どのチームを応援したら良いかよくわからなかったので、広島カープと同郷のよしみということで、サンフレッチェ広島を何となく応援し始めた。そのサンフレッチェは、二年目のシーズンに見事ステージ優勝を飾った。

 そんな両チームを、今も気にし続けている。Jリーグでは訳あって別のチームを熱心に応援するようになったけれど、サンフレッチェの動向は常に気にしている。そしてプロ野球ではカープをずっと応援し続けている。

 中学生のときから熱心に聴くようになったシンガーソングライター浜田省吾も、広島の出身である。彼の楽曲には広島が多く登場する。彼が故郷を歌った曲は重く心に響く。

 広島には路面電車が走っている。広島電鉄である。仕事の関係でその広島電鉄と縁のあった父は、原爆のときの出来事を題材に本を出版した。出版元は小さな会社だったので、原稿の校正は家族総出でやった。この本の背表紙の裏には当時の広電の路線図が載っているが、それを覚えたてのパソコンで作ったのは私である。校正や路線図の作成をやっていたのはちょうど二十世紀末の夏のことであったが、今でも忘れがたき「熱い夏」である。

 その広島は、九州との間を行き来するときに何度となく通った。寝台特急で、寝ている間に通り過ぎたこともある。

 一度だけ、広島の駅前に降り立ったことがあった。寝台特急「あさかぜ」を広島で下車したときのことである。そのときは尾道や福山を訪れることにしていてすぐに新幹線で引き返す予定だったのだが、ほんの数分だけ駅前に出た。冬のことでまだ夜が明けていなかったが、広電の路面電車が唸り声を上げてやって来るのを目にした。

 でも、これだけ縁のある広島の街を、ちゃんと訪れる機会はなかなかなかった。ようやくそのときが来たのは、昨年9月のことであった。

 初めて訪れた広島の街で、訪れてみたいところはたくさんあった。でも、まずどこよりも原爆ドームに行きたかった。

 初めて目にする原爆ドームは、思っていたより小さく感じられた。だが、その佇まいは思っていたよりずっと重いもので、なかなかそばを離れることができなかった。結局、原爆ドームの周りを一周するのに小一時間かかった。

 それであまり時間がなくなってしまい、平和記念資料館を見る余裕はなかった。次に広島へ行くときは、必ず平和記念資料館へ行こうと思っている。

 そんな「はじめての広島」を経験してから、今日が初めて迎える8月6日であった。それだけに、ちょっと特別なものがあった。

 毎年8月6日にはテレビで平和記念式典を見て、8時15分に黙祷をしてから出勤するようにしている。今朝もそうしたのだが、何しろここのところ慌ただしく、どうにか8時15分にテレビの前にいることができたという感じであった。せっかく特別な8月6日だったのに、残念なことであった。

 でも、そんな慌ただしい日常の中にあっても、あたりまえにある平和な暮らしのありがたさを、決して忘れてはならない。そのためにも、広島で起きた出来事を、ずっとずっと想っていきたい。

 きっと広島は、これからも私にとって特別な街であり続けるだろう。だから、また広島に行きたい。何度でも行きたい。
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by railwaylife | 2018-08-06 23:40 | その他 | Comments(0)

ブログ十二年

 今日2018年7月1日で、このブログを始めて丸十二年が経った。

 今の世の中は何しろ時間の経過が早いので、十二年という歳月を長いと言って良いのか短いと言って良いのか、よくわからない。でも、干支が一回りした、なんていう言い方をするとずいぶん長く感じられる。

 そんな長い時間が経過すると、世の中もだいぶ変わる。自己表現のツールも今はインスタグラムなどが主流で、このブログなどはもう古いスタイルなのかもしれないと思う。

 とは言え、私にはこのブログというツールが性に合っていると感じている。だからこれからもこのブログを続けていきたいとは思っている。

 ただ、最近は何かとせわしなく、思うように記事の掲載が進んでいない。それが残念でならない。

 でも、長い間にはいろいろな時期がある。頻繁に記事を更新できるときもあればそうでないときもあるだろう。だから今は今のペースで楽しめば良い。そう思っている。
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季節外れだけど十二年なので国鉄
12系客車 奥羽本線関根駅にて 1984.3.27
by railwaylife | 2018-07-01 19:10 | その他 | Comments(0)

五月の風景 おしまい

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 この五月は「五月の風景」と題して、今までため込んでいた過去の五月の風景を掲載してきた。

 本当はもっとたくさん載せたかったのだが、相変わらずの日常のせわしなさに阻まれて、思っていたほどの数は載せられなかった。でも、今の生活の中ではこのくらいが適量なのかなと思っている。今回載せられなかった「五月の風景」は、また五月が巡ってきたとしたら載せればいいだけである。そしてまた、今年の「五月の風景」も、この間にわずかではあるが得ることができた。それもまたストックしておいて、いつか載せられたらいい。

 さて、こうして一つのテーマに沿った話題を続けて載せていると、今度はテーマにこだわらない話題を自由に掲載したくなってくるものである。だから来月は、特にテーマを決めず、また思うまま記事を載せていけたらいいなと思っている。

by railwaylife | 2018-05-31 23:05 | その他 | Comments(0)

五月の風景

 風薫る五月になった。

 昨日、一昨日はすっきりしない天気だったものの、今日は五月らしいすっきりとした青空が広がり、心地良い風も吹いていた。
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 一年の中でも、五月は比較的過ごしやすい時期である。

 それだけに、ここ数年の五月にはあちこち出かけていた。だが、そのときのことは、まだこのブログに載せられていないものが多い。

 そこでこの五月は、過去の五月の風景を載せていってみようかなと思っている。

 ただそれも、時系列に並べようとか、前後の関係をきちんと考えて載せようなどと律儀にやっているとなかなか掲載が進まないから、順番など気にせず思い付くままに載せていこうかと考えている。

by railwaylife | 2018-05-04 23:35 | その他 | Comments(0)

地下化五年

 つい最近のこと、職場のオフィスがあるビルのエレベータの中でのことだったと思うが、知らない人が「渋谷の駅は地下になって不便になったよねぇ」と連れの人に話しているのをたまたま耳にした。

 今時こういう話をしている人は、たまにしか渋谷駅を利用していないんじゃないだろうか。毎日のように利用している人は、不便だということをもういちいち口にしないと思う。あるいは駅の構造にすっかり慣れ、不便を感じなくなっているかもしれない。何しろ、東急東横線の渋谷駅が地下になってもう丸五年が経つからである。



 地下化から五年が経った今、渋谷地下駅の周りは再開発の真っ盛りである。東横線の地上ホームの跡にも新しいビルが建設されている。渋谷の街は、新しく生まれ変わろうとしている。

 ただ、その渋谷の街は、駅の近くに商業ビルが集中するようになることで、かつてあったような街の回遊性が失われつつあるという。

 かつての渋谷は、駅を中心に人々が街中を回遊することにより新しい文化を発信する街になっていたと言われる。それが今や失われ、文化を発信する街ではなく消費する街になっているのだそうだ。どこの街にでもあるようなチェーン展開の店舗が街の賑わいの中心になっているからである。

 そんな今の渋谷に、回遊性を取り戻そうという動きもあるらしい。注目されているのは、原宿・表参道から代官山という、渋谷の北と南にある文化の発信拠点とのつながりである。この二つのスポットと渋谷をつなげれば、渋谷の街に南北方向の人の流れが形成されることになる。

 そもそも渋谷の街は北から南へ流れる渋谷川の谷を中心として形成されている。だから、原宿・表参道から代官山へという流れは、その谷の地形に沿ったものでもあると言える。

 ただ、そういう流れを形成するにはいくつか問題があると思う。

 まず、北側の原宿・表参道からの流れを見てみると、注目されているのが昨年新たに誕生した渋谷キャストである。新しい文化の発信拠点として建てられたこのビルは、表参道から渋谷川跡の遊歩道を辿ってきた先にある。

 この渋谷キャストまでは、原宿・表参道からの流れを引き寄せられそうだが、問題はその先である。

 渋谷キャストからは明治通りに沿って歩けば渋谷駅に出られる。だが、明治通り沿いはごちゃごちゃしているし、沿道にはごくふつうの商業ビルが建ち並ぶ。ここに回遊性をもたらす上で有効だったのが縦に長い宮下公園であったのだが、これは昨年取り壊された。跡地にもビルが建つようだ。

 ただ、宮下公園の代わりとなり得るものがある。それが、渋谷地下駅の13番出口から始まる地下道である。この地下道は広くて歩きやすい。

 しかしここは、広いだけで実につまらない地下道である。沿道に店舗が並んでいるわけではない。本当に、ただ歩くだけの地下道である。ここに何か人を惹き付けるものを並べないと、北からの流れは渋谷駅まで呼び込めないだろう。

 ちなみに、13番出口から来た地下道の駅改札近くには若干の広いスペースがある。防災用のスペースなのだろうが、年に何回かはそこでコンサートが開かれている。そういうイベントを、もっと積極的にやったらいいんじゃないかなと思う。

 さて、今度は駅の南側の代官山方面に目を転じてみると、こちら側にも新しい建物ができつつある。かつての東横線の線路跡に、今秋開業を目指して建設されている渋谷ストリームである。東横線の駅と地下で直結するようだ。

 この渋谷ストリームは、渋谷川に面している。ちょうど渋谷川の流れが地上に顔を出すあたりだ。そこで、渋谷ストリームの前からは渋谷川に沿った遊歩道が整備されるそうだ。まさにかつて東横線の線路があったスペースである。

 しかし、渋谷川の流れに沿って行くと、恵比寿の街に出てしまう。代官山へは行くことができない。それに、代官山へ向かうためには大きな障壁がある。JR山手線と山手貨物線の複々線の線路である。これをどう越えるかも、回遊性をもたらす上で大きな問題である。

 かつて東横線は、この複々線をトラス橋梁で跨いでいた。そのトラス橋梁は今やすっかり取り払われ、跡形もない。すぐ近くには線路を跨ぐ歩道橋があるのだが、上り下りしにくいし、いかにもかぼそい歩道橋である。渋谷から代官山への回遊性をもたらすには、何とも頼りない。

 代官山とのつながりを考えたら、東横線のトラス橋梁を残しておき、遊歩道の一部として整備すれば良かったんじゃないかなとも思う。でも、トラス橋梁には設備の老朽化などの問題もあったのかもしれない。撤去せざるを得なかったのだろう。

 だったら、もう一度トラス橋梁を作ってもいいんじゃないだろうか。そして渋谷ストリーム前からの遊歩道とつなぎ、JRの線路を越えた反対側では、すでに完成している代官山ログロードとつなげばいい。そうすれば、原宿・表参道から渋谷の街を経て代官山まで回遊するための道筋が完成する。

 こうやって考えてみると、これからの渋谷の街の発展は、実は東横線トラス橋梁の再生にかかっているのではないか、なんて勝手に思っている。
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by railwaylife | 2018-03-23 23:35 | その他 | Comments(0)

My Favorite Place 丸子多摩川

 このブログに一番多く登場している場所、と言って良いのが東急多摩川駅近くの多摩川河川敷である。ちょうどこの前の記事にも掲載したばかりである。

 そこは私にとって、大のお気に入りの場所である。わかりやすくするため、地名を冠して丸子多摩川と呼びたい。

 その丸子多摩川には、家から近いこともあってしょっちゅう出かけている。特にここ数年は、月に最低一度は出かけることにしている。それは、今から三年ちょっと前、2014年の年末に心に決めたことであった。



 そもそも私は若い頃から、できれば一ヵ月のうちに一回は旅に出たいなと思ってきた。そしてそれを「一月一旅(ひとつきひとたび)」と名付け、毎年の目標にしてきた。

 月に一度は旅に出るというと、ずいぶん贅沢なことに聞こえるかもしれない。だが、ここで言う旅というのは、何泊もかけて出かけるような遠方への旅ばかりではない。期間としては一日でも半日でもいい。そして旅先もうんと近くたっていい。となり町でもいい。大事なことは、日常を離れ、普段は目にしないような風景や、花や歴史や文化に触れることだ。そういう時間を「旅」として認識し、月に一日でも半日でも取れればいいと思っていた。

 だが、せわしない日常の中にあると、そういう「一月一旅」でも実現するのがなかなか難しいことであった。



 三年前の2014年も、その「一月一旅」の目標が達成できないまま年末を迎えていた。

 そんなとき、例のごとく丸子多摩川へ出かけ、多摩川駅近くの多摩川浅間神社に参拝したことがあった。

 すると、社の入口に掲げられている標語がふと目に留まった。

 「月に一度は氏神様にお参りしましょう」

 これを見たとき、思い付いたことがあった。

 それは、月に一度の旅は無理でも、この丸子多摩川へ月に一度必ず来るのは無理ではないのではないかということである。旅先、というわけではないかもしれないけれど、日常からふと離れることはできる。そんな気がした。

 そこで翌2015年は「月に一度は多摩川へ」という目標を立てることにした。

 そして、何とか無事に達成することができた。

 しかも、月に一度というペースではなく、もっと頻繁に訪れることができた。数えてみると計二十回であった。結局は、月に一度などという目標をそれほど意識することもなかった。それくらい気に入って訪れる場所であった。

 以来、2016年、そして2017年と、この「月に一度は多摩川へ」を実践し続けている。

 おかげで、丸子多摩川のさまざまな風景を、四季を通じて目にすることができている。



 その風景はすでにこのブログにも多く掲載してきたのだが、まだまだ出し惜しみしているものがある。

 と言うのも、そうやって集めた風景の中からいいものを厳選し、時系列にきちんと並べ、特集としてブログに掲載したいと考えていたからである。

 しかし、それは時間のかかることであるし、そもそも桜の花のときの風景などは前後に順番など無視し、桜特集にかこつけてすでに載せてしまっている。だから、それ以外の季節の風景も厳選などせず、時系列にも並べず、もっと自由気ままに載せていっていいんじゃないかなと今は思っている。

 そんなわけで今年からは、今までためこんだ丸子多摩川の風景を、積極的に掲載していけたらいいなと考えている。季節や気分に合わせて、その日載せたいと思ったものを載せていったらいい。そうでないと、この場所の風景がたまっていく一方である。もうこの丸子多摩川の風景だけで一つのブログができるくらいだ。

 もっとも、新たにブログを作る気などない。複数のブログを掛け持ちするのは大変だとわかっているからである。

 それに、この丸子多摩川を訪れることも、私の「レィルウェイライフ」の大事な一部分である。だから今まで通り、このブログの一つのテーマとして載せていこうと思う。



 ところで、この丸子多摩川の何がここまで私を惹き付けているのであろうか。

 その理由は、あまりくどくど説明せず、ただ「好きだから」というということだけで良いのかもしれない。でも、あえて説明すると、四つの理由が挙げられる。

 一つ目の理由は空である。河川敷の空は広い。とにかく広い。普段、ビルの谷間ばかりにいて広い空を見ることが難しい身からすると、広い空は憧れである。そういう空を見ているだけで、心も広くのびのびしてくる。そして、広い空の表情を見るのが楽しい。多摩川駅で下車し、多摩川浅間神社の横を抜け河川敷に出るとき、今日の空はどんな表情をしているのだろうと思ってワクワクしてくるものである。

 次の理由は鉄道の橋梁である。沿線風景の中でもハイライトとでも言うべき、橋梁を電車が往く風景を眺めるのは楽しい。特に東横線は私の日常路線であるから、その見慣れた路線の電車が広い川原に躍り出て行くさまを眺めるのは一際楽しい。また、ここの橋梁は東横線だけではなく目黒線が並走していて、複々線になっている。おかげで両線の車両のさまざまな取り合わせが見られる。特に最近は、東横線を通る車両の種類がぐんと増えたから、余計に楽しくなってきた。

 ただ、この場所の橋梁は、日常の路線だけではない。車道橋の丸子橋を挟んだ下流には、東海道新幹線の橋梁がある。

 一番遠くて九州まで行く東海道新幹線は、九州寝台特急なき今、西への旅の憧れの象徴でもある。そんな新幹線が、日常の東京から川を渡って出て行く。あるいは東京へ戻って来る。そこはまさに日常と非日常の結節点でもある。その場所で、いつか旅に出られる日のことをいつも想っている。

 さらに、新幹線のとなりには品鶴線が通っている。ここは中距離電車しか走っていないけれど、時には私が気に入っているE259系も通る。また、東海道新幹線とは異なりトラス橋梁なので、橋梁の風景も違ってくる。東急、新幹線、品鶴線と三者三様の橋梁風景がある。それを眺めるのが楽しみである。

 三つ目は緑である。河川敷は緑も多い。さらにその周囲にも緑はある。浅間神社の杜に、それに続く多摩川台公園、そして多摩川駅の近くには田園調布せせらぎ公園の緑がある。そういう緑が四季の中で変わっていくさまを眺めるのも楽しい。それとともにさまざまな花が咲き、散ってゆくさまを眺めるのも楽しみである。

 そして四つ目は歴史である。

 多摩川駅近くの浅間神社は、富士信仰の由緒がある社である。そしてその境内はもともと古墳があったという。古墳はその一箇所に留まらず、多摩川台公園に点々としている。そんな古墳を熱心に調べ上げたこともある。荏原台古墳と呼ばれる古墳群で、関東でも有数のものである。

 また、丸子橋辺りにはかつて渡しがあり、鎌倉街道の一部であったともされる。交通の要衝であった。その丸子の渡しを囲むようにして、戦国時代にこの辺りを支配した吉良氏ゆかりの史跡が残る。沼部辺りは吉良氏の所領だったようだし、丸子川上流にある籠谷戸は吉良氏が物資を陸揚げした港であったと伝えられている。川を挟んだ反対側には吉良氏ゆかりの寺が残る。新幹線の橋梁のたもとの大楽院には吉良氏が奉納した薬師如来が残る。新丸子駅近くの泉澤寺は吉良氏の菩提寺であったと伝える。そんな歴史も感じつつ、この場所の風景を楽しんでいる。



 さて、こんなふうにさまざまな想いのあるこの場所の風景を、これから想いを込めて掲載していきたい。
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by railwaylife | 2018-01-08 00:20 | その他 | Comments(0)

さらばエル特急

 来年3月のダイヤ改正で、JRからエル特急が完全に消滅するというニュースを目にした。

 国鉄時代には「数が自慢の特急列車」という触れ込みで、全国各地の特急列車にこのエル特急という呼称が冠されていたが、JRになって各社が独自色を出していく中で次第にこの呼称を付けない特急列車が増えていった。だから、エル特急ってまだあったんだなと思ってしまった。

 ニュースの記事には、エル特急の「L」は何の略だかよくわからないし、最近ではあまり認識もされなくなっていたと書かれていた。たしかにそうだが、このエル特急の全盛期に小学生だった私は、単なる特急とは異なるある種の風格を、子供心にもエル特急に対して抱いていたものであった。それに子供だったから「L」の意味なんてわからなくても良かった。時刻表の列車名欄にずらりと並んでいた「L」のマーク、そして色とりどりのトレインマークの隅に付けられていた「L」のマークが憧れの的であった。だから、そのマークのない特急は、何となく物足りない気がした。時刻表では「L」のマークより小さい表記で「特急」と書かれていたし、トレインマークにも「L」のマークがなくて何だか締まりのないように感じられたものであった。

 最近のJRの特急列車は愛称の前に「スーパー」なんていう言葉を付けて特急の格を区別しているし、国鉄時代の特急列車に比べると車両の設備も格段に良くなった。もちろん、技術の革新もありスピードも上がった。

 でも、幼い頃にエル特急に対して感じていた特別の風格を、いまの特急列車にはなかなか感じられないから不思議なものである。
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by railwaylife | 2017-12-29 23:05 | その他 | Comments(0)

車内のドアの話

 毎朝の通勤で利用している電車は、乗るときはけっこうぎゅうぎゅうだが、途中いくつかの乗り換え駅でだんだん空いてくる。それで、乗車のうちの後半は座席に就けることが多い。そのときによく座る場所が車両の一番隅である。やはり、人間というか生き物は隅っこが好きなものである。

 そうやって隅っこに座ると、すぐ目の前にとなりの車両との境のドアがあり、そこを開け閉めする乗客の姿を目にすることになる。

 電車が動いてる間に、車両間を移動する乗客は多い。特に朝は、急いでいる人たちが降車駅に着くまでにその駅の階段やエスカレータに近い車両へと移動しているのだろう。

 そういう人たちを見ていると、車両の移動をするときにはだいたいの人が開けたドアを閉めないで行ってしまう。急いでいるからそれどころではないのかもしれないが、開けっ放しで行ってしまう人は家や職場でも開けたドアを閉めなかったりするのかなあ、なんて私は考えたりしている。

 ただ、最近の車両のドアは取っ手のところに「自動で閉まります」と書いてあったりする通り、人が閉めなくても勝手に閉まるようになっている。どういう仕組みになっているのかはわからないが、たいていは電車がカーブして傾いたときなどにぴたっと閉まる。
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 もっとも昔の車両は、車両と車両の間にドアなどないこともあった。京王井の頭線を昔よく利用していたという知人が話してくれたことがあったが、当時の井の頭線の電車は車両の間にドアがなくて、その継ぎ目も広く開いていたから、端の車両に乗っていると反対の端の車両まで車内が良く見渡せたという。座席に座っている乗客の足がずらっと並んで見える。そんな光景が、昔の井の頭線の一番の記憶だそうだ。

 最近の車両は必ずドアが付いているし、先に書いたように自動で閉まるようにもなっている。以前に何かで読んだことがあるが、車両間のドアを閉めるのは、ある車両で火災が発生したときに他の車両へ延焼するのを防ぐ目的があるらしい。だから、やはり開けたドアは閉めておくのが正しいのかもしれない。

 と言っても、私は電車が動いているときに車両を移動するのはあまり好きではないので、通勤電車ではドアの開け閉めを気にすることはほとんどない。



 ただ、寝台特急に乗ったときは、よく車両の間を移動したものであった。
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 食堂車やロビーカーが付いていれば、その車両へ移動することがあった。また、途中駅で機関車の付け替えがあるようなときは、その駅に着く前に先頭の車両まで行っておいて、付け替え作業を見るのに備えたりしたものだった。特に自分が個室寝台に乗っているときは、個室に施錠すれば心おきなく列車内を移動できた。

 そんな移動のとき、車両間のドアが寝台の種類によって違ったりして面白いものであった。また、寝台列車の場合はデッキから客室へ入るところにもドアがあるので、車両を移動するときは開け閉めするドアが多く大変だった。もちろん、そのときは開けたドアを必ず閉めるように心掛けていたし、個室寝台車両のドアには自動のものもあった。初めてそのことを知ったときは感動したものであった。

 いま、食堂車やロビーカーの付いている列車に乗ることはないし、機関車の付け替えが途中であるような列車もない。だから、車両の移動をするということもほとんどない。

 乗車中に車内のドアを行き来するのは、せいぜい新幹線や特急列車で、車両端の洗面所へ行くときくらいである。それも最近はだいたいが自動ドアだから、開け閉めを気にする必要もない。

by railwaylife | 2017-10-28 10:00 | その他 | Comments(0)