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渋谷2017年末

 年末に築地へ出かけるのが毎年恒例となっていると先に書いたが、大晦日に渋谷へ出かけるのもまた、何となく毎年のこととなっている。

 それは、築地へ行くことほど思い入れや意味のあるものではないのだが、やはり大晦日に渋谷へ行かないと、どうも一年が締まらない気がするものである。そこで昨年の大晦日も、渋谷へと出かけた。

 では、何のために渋谷へ行くのかというと、その日の夜に食べるものを買い求めるためである。

 年が明けてから食べるおせちなどは、前もって家族みんながそれぞれに準備するものである。しかし、大晦日の夜に食べるものは意外と少ない。だからその日の昼間に、惣菜などを買い求めに行く。

 そして、東急フードショーや東横のれん街の人波に呑まれることとなる。年がいよいよ押し詰まってくるその時間に渋谷の人混みに紛れることもまた、新しい年を迎えるための大事な儀式のような気がしてならない。

 最近、テレビなどでは新しい年を迎えるための作法について、雑学の一種としてよく取り上げられるようになっている。その道の専門家みたいな人が出てきて、ことこまかに言う。

 古来からのしきたりに基づいたそういう作法も、もちろん大切である。しかし、あまり型に溺れてしまっては意味がない。大事なのは、新しい年をどう迎えるかという気持ちである。そのために人々は験を担ぐ。毎年やっているから、今年もそうしようということである。もしそれをやらなくて、その後良くないことが起こったとしたら、今年は新年にあれをしなかったからだと思うだろう。だから、人それぞれ、家庭それぞれの年越しのしきたりが何より大事だ。端から見ればおかしなことであっても、その人やその家にとっては大切である。私も、それを大事にしようと思っている。

 話が逸れたが、そうやって大晦日の渋谷の儀式も終え、いよいよ東横線で帰宅の途に就くときは、それがその年の鉄道の乗り納めにもなる。特別な感慨をもって乗車することとなる。

 ところで昨年のその乗り納めの直前、ふと渋谷の街に広がる光景に目を留めた。
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 かつて東横線のホームと線路があったところに、二棟の高いビルが建ち始めている。

 今は作りかけのこのビルも、出来上がって渋谷の街にある風景があたりまえになれば、これがいったいいつ建てられたのかすぐに忘れてしまう。

 例えば、マークシティやセルリアンタワーがいつ建てられ、いつ開業したかなんて、咄嗟には出てこない。かろうじてヒカリエの開業したのが2012年4月だということを今は覚えているくらいである。

 だから2017年の年末、まさにこの二つのビルが建てられつつあったということを記憶しておきたい。

by railwaylife | 2018-01-18 23:55 | | Comments(0)

夏の乗り換え駅

 遠い夏の日、幹線を往くローカル列車に揺られていたときの思い出がある。



 車内放送で「アルプスの牧場」のチャイムが鳴った。節目となるような駅に到着する合図である。その後に車掌の案内が始まる。

 「お待たせしました、間もなく○○に到着します。お出口は右側です」

 その駅では枝線が分岐しているから、乗り換え案内も入る。

 「□□方面の△△線に乗り換えの方は、橋を渡りまして○番線へお回り下さい」

 この「橋を渡りまして」という表現が好きだった。橋とは跨線橋のことだが、跨線橋と言わず単に「橋」というところに趣があるように感じられた。



 でも最近は、そうやって「橋」と呼べるような跨線橋も減ってきた。
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 この跨線橋を目にしたとき、そう思った。


内房線五井駅にて
2015.8.7
by railwaylife | 2015-10-31 23:10 | | Comments(2)

懐かしき上野駅

 近年、上野駅とその周辺は変化が著しい。

 その変化を楽しみながら、上野駅の周りをぐるっと一周してみた。

 不忍口から公園口を過ぎ、国立科学博物館の裏を抜けて駅の北側へ来た。輻輳する線路の上を両大師橋という橋が横切っている。以前から架かっていたと思うが、橋自体は最近整備されたのか綺麗になっていた。

 線路を見下ろしながら橋を渡った。手前の公園口側にあるホームは奥まっているが、その先の9番線・10番線辺りまで来ると橋のすぐ近くまでホームが伸びていた。さらにその先にはいわゆる地平ホームが見下ろせた。
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 そこまで来たとき、ひどく懐かしい気がした。

 まだ上野駅が在来線の特急列車であふれていた頃、このあたりへ来たことのある気がする。

 そして、ホームの屋根などの構造物が、その頃と変わっていない気がした。

 今は常磐快速電車がポツンと停まっているだけだが、昔はひっきりなしに特急電車が出入りしていたはずである。そういう特急電車が、このホームに入って来てもおかしくない雰囲気であった。
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 変わりゆく上野駅だが、変わらないところもあった。

 その変わらない場所を見たとき、懐かしさとともにどこかホッとするような想いもあった。


東北本線上野駅にて
2015.7.12
by railwaylife | 2015-08-12 23:30 | | Comments(0)

渋谷の夏の朝

 以前に掲載した「真夏の朝の夢」という記事に書いた通り、真夏の頃に臨時寝台特急「あけぼの」を見に行ったことがあったが、そのときは久しぶりに地元の駅から東横線の始発電車に乗るべく、朝早くに家を出た。

 昔から「早起きは三文の得」とは良く言ったもので、この日も早朝ならではのいいことがあった。

 それは、明けたばかりの空の様子である。

 日の長い時期のことゆえ空はすでに明るく、そのほんのりと朝焼けした空に無数の小さな雲が整然と浮かんでいた。

 家を出てまずそれを目にした私は、そんな空の様子をできればじっくり眺めたいと思ったが、そういうことをしていては始発電車に乗り遅れてしまう。それで、空の様子をずっと気にしながら駅へと急いだ。

 始発電車に乗ってからも、雲の散らばる様子が車窓にずっと見えた。

 途中の駅で降りてそれを見たいとも思ったけれどできるはずもなく、ウズウズしながら下車すべき渋谷駅まで乗り通した。

 山手線へ乗り換えるため地下の駅から地上へ出ると、雲はまだあった。ここでの乗り換え時間には余裕があったので、空を少し眺めることができた。
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 この渋谷の地で、久々にいい風景が見られた気がした。

 そして、この街の空の広さを改めて感じていた。

 しかし、折しもこの前日からここでは新たな高層建築の建設が始まったところであった。また空を狭くしていくのかと思うと、ちょっとげんなりしてしまった。

 さて、こういう雲はたちまちに消えてしまうもので、山手線に乗ってからはもう見ることはできなかった。

 それだけに、その雲のさまもまた「真夏の朝の夢」であった。


東急東横線渋谷駅にて
2014.8.2
by railwaylife | 2014-10-12 22:10 | | Comments(0)

変わる渋谷駅

 東急東横線の地上ホームが使われなくなって以来、この半年ほどで渋谷駅の風景は大きく変わった。今まであったものがどんどんと形を変えている。
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 その様子をこうして逆順に並べてみれば、まるで地上ホームが新しく作られてゆくようでもある。

 しかし、時は決して戻らない。


東急東横線(旧)渋谷駅にて 
2013.10.26 , 9.15 , 8.24 , 5.12
by railwaylife | 2013-11-19 22:20 | | Comments(0)

渋谷の空

 私は、人ごみがあまり得意ではない。

 また、世間の注目を浴びるような場所へ行くのも苦手だ。

 だから、いよいよ最後の一日として注目を集める明日3月15日の東急東横線渋谷駅地上ホームへは行けない。

 ただそこは、私の通勤経路でもある。明日は平日だから、ふつうに通勤すれば利用せざるを得ない。

 それでも、私は行かない。東横線の渋谷駅は通らないで通勤するつもりである。もちろん帰りも通らない。それが、私なりのこの駅への想いでもある。





 そんなわけで、今日3月14日が、私にとって渋谷駅地上ホームを踏みしめる最後の日となった。

 格別の寂しさはなかった。このホームがやがてなくなることは、もうずいぶん前からわかっていたからである。その間、十分に別れを惜しんできた。

 そしてまた、今日渋谷駅を利用したのも、これまで数え切れないほどこの駅を利用してきたうちのほんの一回に過ぎないのだと思った。





 そんな地上ホームの風景を最後に撮影したのは、一昨日の朝のことであった。
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 何気なく撮った写真であるが、私には大事な風景である。

 今までの東横線渋谷駅とこれからの東横線渋谷駅の一番の違いは、空が見えるか見えないかだと思う。





 今までの渋谷駅からは、空が広く見えた。その空を、これまで何度となく仰ぎ見てきた。

 その青さに胸がスッとしたこともあった。どんよりとした色に憂いを感じたこともあった。色のない空に空虚さを感じたこともあった。そしてあの、節電ダイヤのときの暗い暗い空と駅は、決して忘れることができない。

 そんな渋谷の空の表情が、この駅での大事な大事な思い出の一つである。


東急東横線渋谷駅にて 
2013.3.12
by railwaylife | 2013-03-14 21:50 | | Comments(0)

三十年前

 今からちょうど三十年前の1982年(昭和57年)11月14日、私は父に連れられ上野駅へと出かけた。

 この日、翌日に控えた上越新幹線大宮-新潟間の開業に伴い、上野発の多くの在来線特急が最後の日を迎えていた。すでに東北新幹線の大宮-盛岡間は五ヵ月ほど前に開業していたものの、東北本線系統のほとんどの在来線特急もこの日が最終運行日だったと記憶している。

 それらの最終列車を見送るため、私と父は上野駅にいた。

 この日まで、何度も何度も私は上野駅へ連れて行ってもらい、続々と北へ旅立つ特急列車を眺めてきた。それが、私の東北への憧れの原点であった。

 そんな風景もこの日が最後ということで、幼い私にもそれなりの想いがあったとは思うが、何しろ駅には人が多くて大変だったというのが一番の記憶である。背の高い大人たちに挟まれながら、私は父に付いて行くのが精一杯だったと思う。

 このとき父は、職場からビデオカメラを特別に借りて来て撮影をしていた。それこそテレビ局のカメラのように大きなビデオカメラで、テープもまだベータマックスであった。そのおかげで私は父が普段使っていた大きなカメラを持たせてもらったが、写真なんてほとんど撮らなかった。いや撮れなかったし、そのフィルムも現像しなかったのではないかと思う。今考えればもったいない気もするが、子供のことだけにどれだけいい写真が撮れたかわからない。ただでさえ大変な人出だったときである。

 そんな中で最も印象に残っているシーンは、特急「みちのく」の発車のときである。

 常磐線経由青森行きのこの特急列車は当時一日一往復で、上野駅から一番遠くまで行く列車であった。同じ青森行きには東北本線経由の「はつかり」もあったが、そちらは本数が多かったこともあり、私は一本しかない「みちのく」の方により強い憧れがあった。

 そして子供心に一番惹かれたのは、そのヘッドマークであったと思う。ちょっと物悲しい赤色を背にこけしの描かれたマークは、まだ見ぬ東北の象徴みたいなものであった。

 そんな「みちのく」に乗る機会もないまま、この日の最終列車を見送ることとなった。おぼろげな記憶だが、花飾りのようなものが付けられていた気がする。その列車が上野駅を発っていくのを見ながら、あぁ、もうこの列車に乗ることはできないんだなぁと寂しさを感じた覚えがある。惜別、なんてことは子供のことだから思えなかったけれど、やはりこの「みちのく」には格別の想いがあったのだろう。



 この日を境に多くの列車が上野駅の在来線ホームから姿を消し、その後も新幹線の延伸開業のたびに一本また一本と消えていった。



 いま、この上野駅在来線ホームから北へ旅立つ列車は本当に数えるほどである。



 それでも私は今も、この駅を訪れるたび、三十年前と同じように北への憧れを感じている。

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by railwaylife | 2012-11-14 23:45 | | Comments(2)

京都駅ビル十五年

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 今日2012年9月11日で、京都駅ビルが開業十五周年を迎えるという。

 このことを知ったとき、もう十五年も経つのかと思った。最近は歳月の経つのが早くなったように感じられ、十年、十五年なんてすぐ過ぎてしまうように思う。でも、もうそのことに驚かないようにしている。驚いて、自分も歳をとったんだななんて思ったりすると、げんなりするだけだからである。だから最近は、ほぅ、十五年も経ったのか、と感心するだけにしている。

 ところで、今でこそ文字通り京都の玄関口としてあたりまえに存在する京都駅ビルであるが、この建物ができるときにはいろいろと物議をかもしたものである。京都という街ならではの、景観に対する危機意識である。

 そんな京都の景観に対する想いを、この駅ビルができて間もない頃に綴ったことがあった。

 もちろん当時はブログなどないときなので、その文章は私の手元にひっそりとあるだけであった。また、パソコンのワープロで作成したのに、そのデータもどこかに行ってしまい、いまはプリントアウトされたものが残るだけであった。

 そこでその文章を改めて入力し、このブログに載せてみようと思った。紙に出力されたものなどはかないもので、何かあればすぐに消滅してしまうし、書いたものが日の目を見ないのももったいない気がした。そういう想いがあったので、開業十五周年を迎えたことにかこつけて、ここへ掲載する次第である。

 ところで、十五年も経てば私の文章の書き方もだいぶ変わってくる。だから当時の文章を見ると何ともまだるっこしく、推敲したくてうずうずとしてくるのであるが、そこはあえて我慢し、最低限の調整だけに留めて原文に近い形で載せてみることとした。もちろん、内容に拙いところが多々あるのは承知の上だが、若き日の私の想いをそのまま残しておきたいので、極力手を加えないことにした。





京都駅ビルに想う

 1997年9月、京都駅烏丸口の駅ビルがオープンした。地上十五階の巨大な建物には、商店街はもちろん、デパートやホテル、劇場も入っている。

 この京都駅ビルには、観光都市・京都の表玄関として相応しい建物である、あるいは大きな経済効果が期待できるという歓迎の向きもある一方で、古都京都の景観にそぐわない、とか、巨大な壁が町を分断してしまうといった批判があるのもまた事実である。特に景観論争は、一時激しく意見が交わされ、京都という町の問題点が浮き彫りにされた。そんな報道に度々触れながら、私はこの問題を歴史上のある出来事に置き換えて考えてみた。

 平安時代も末期の1077年(承元元)のこと、京都の白河に法勝寺という寺が建立された。時の権力者白河上皇の御願によるもので六勝寺の一つとされている寺である。この寺に1083年(永保三)、高さ八十メートルもあるという八角九重塔が建てられたという。八十メートルといえば今でこそ大した高さではないが、当時としては異様な高さであっただろう。九重塔という造りも珍しい。この塔を、当時の京都の庶民たちは、どんな思いで見上げていたのだろうか。

 この六勝寺は現存しない。度重なる天災や人災で荒廃してしまったのである。現在の位置でいえば京都市立動物園付近に当たるという。東にはインクライン・南禅寺、西には平安神宮という、閑静な場所である。そして、南東に行けば、かつての京都七口の一つ、粟田口がすぐである。ここは京都から東海道・東山道への出口であった。言い換えれば、東海道・東山道などを通って京都へ上ってくると、粟田口から都に入ることになるわけである。そうすると当然、人々の目にまず法勝寺の九重塔が入ってきたことだろう。この点、今の京都駅ビルと似たところがある。初めて都に上ってきた人には、九重塔はどのように映っただろうか。さすが都、と目を張っただろうか。白河上皇の権威の高さに恐れ入ったであろうか。

 一方、都に住む人たちはどんな目で九重塔を見たであろうか。当時、都の「景観」という概念があったかどうかはわからない。また、この法勝寺の造営には、受領らの成功による収入がつぎ込まれていたという。白河上皇の権威に預からんとする者たちから集められた財が充てられたのであるが、そういう面では、今で言うところの「税金のムダ使い」という意識は都の庶民の中にはあっただろうか。もちろん当時の租税に対する概念は現代とは全く異なっただろうし、簡単に人々の意識を現代と結び付けて推測することはできないかもしれない。しかしこの法勝寺の塔が建てられた時代、世情は決して安定していなかった。平家物語の一節として有名な白河上皇の「三大不如意」、すわなち「鴨河の水・双六の賽・山法師」がそのことを端的に示している。京中を流れる鴨川の氾濫で、家財や命までもを失う人々がいたであろう。双六の賽は別としても、山法師、すなわち多武峯や園城寺の衆徒たちの度重なる強訴に都人は恐れおののいたことであろう。このような時勢の中、権威にあかせて建てられた法勝寺そして九重塔に少なからず反発を覚える人々もいたことであろう。

 また、塔が建てられる前年の1082年(永保二)には、諸国で旱魃が起きていたという。それらの諸国から、受領によって吸い取られた租税が、寺の造営に使われたのである。諸国の庶民とて、何らかの反意を抱いたことであろう。

 だが、他方では、法勝寺の建立を喜んだ人もいたかもしれない。世は正に末法の時代、壮大な伽藍の出現に、仏法の興隆を喜ぶ者もあったであろう。不安な世情の中に現れた荘厳な寺院に、心を安める者もいただろう。また、喜びはしなくとも、白河上皇の権威の高さに素直に畏れ入った人もいたかもしれない。

 このように考えてみると、この法勝寺をめぐって、当時の人々は、賛否含めて実に様々な感慨を持ったことが推察されるのである。それは、ちょうど現代において京都駅ビルに対する多様な意見があるのと同じではないだろうか。仏法の興隆を喜ぶように、京都駅ビルの出現による経済の興隆を喜んでいるわけである。

 そしてまた建設に賛否はあったものの、結局現に駅ビルは建てられてしまった。それは、建設を推した行政や一部の経済界が、他よりも権力を保持していたからであろう。環境・景観を多少侵しても、経済の活性化を願ったからである。このように、建物には時の権力の所在が反映されると言って良いのではないか。京都駅ビルの登場がこの平成という世の中を象徴しているわけである。また、京都という、観光に多くを頼る都市の現状を象徴しているのである。それは、法勝寺が、白河上皇という時の権力者を威勢を反映していたのと同じことではないだろうか。

 このことはまた、文化財として現に京都に存在する寺院・建築物についても言えることだ。後白河法皇の三十三間堂、豊臣秀吉の豊国神社もまた然りだ。そうした長い長い営みの上に、京都は成り立っているのである。そして今、京都駅ビルという新たな営みが生まれたわけである。そして、都市の景観というものは、こうした歴史の積み重ねの中から生まれるものだと言えるだろう。多くの権力者が現れ、新たな景観を作り、そして滅びていく。その繰り返しで都市・京都は作られてきたものである。現在の京都駅ビルの建築も、歴史の繰り返しのほんの一端に過ぎないのではないだろうか。

 またこうした栄枯盛衰が繰り返される中でも、京都には古くからの建物が数多く残っている。それらは文化財として大切に保存され、芸術として崇められている。またその建物が作られた時代を知るよすがともなっていると言える。京都では鎌倉・室町期に作られた建物を見ながら、憧れの中世に思いを馳せることがある。こうした点でも、建物は時代を象徴していると言えるのではないだろうか。

 その意味では、京都駅ビルが、今後何百年もの間残ったとしたら、その時建物を見た人々は、きっと今の平成という時代に思いを馳せるだろう。だから、この京都駅ビルという建物は、私たちの時代の象徴になるかもしれないのである。

 だが、そうやって未来の人々が今の平成という時代を想った時、どんな感慨を得るのであろうか。豊かな時代だったと憧れるだろうか、それとも…。どんなイメージを抱くかは今を生きている私たちに懸かっている。京都駅ビルという、立派な象徴に恥じぬよう、良い時代を築かなくてはならないだろう。

 私とて、駅ビルが古都の景観にはそぐわないという気もしている。だが、徒に目くじらを立てて、景観、景観と言ってみても始まらない。京都の歴史の中で冷静に見つめていきたいと思うのである。


(1997年~1998年頃執筆)

by railwaylife | 2012-09-11 08:00 | | Comments(2)

ゆめかうつつか代々木駅

 先月初めに「転車台見学」へ行くため乗った天竜浜名湖鉄道で印象的だったことの一つに、国鉄時代からの駅名標があった。紺地に白抜きの字で駅名が書かれた、ホーロー製の縦長のものである。

 この駅名標が、天浜線こと天竜浜名湖鉄道の駅にはまだいくつも残っていた。
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 昔はこういうタイプの駅名標が国鉄のどの駅にもあった。もちろん都内の国電区間にもである。それだけに、天浜線で見た駅名標は「懐かしい」という気がした。





 そんな印象が強く残っていたので、静岡まで出かけてから何日かの後、仕事帰りの新宿駅でふと縦長の駅名標に目が留まったとき、昔はこれも紺地に白字のものだったんだろうなあという気がした。今のJR東日本管内では、白地にグレーの字で駅名が書かれ、字の上にラインカラーが申し訳程度に塗られているだけである。

 そんな新宿駅の駅名標を見ながら山手線の内回り電車に乗り込み、進行方向左手のドア際に佇んだ。帰路の山手線での定位置である。こちら側の車窓には、新宿駅の5・6番ホームが見えるし、代々木駅を過ぎれば併走する山手貨物線の線路も見られるからである。

 それでその日も、すっかり暗がりとなった空の下、左窓の風景を呆然と見つめていると、程なく代々木駅へとさしかかった。ホームの明るい灯が窓外から飛び込んでくるとはいえ、夜のことだけに車窓はどことなくぼんやりとしていた。そこに一瞬、紺地で白抜きの「よよぎ」という駅名標がよぎったように見えた。

 ハッとなって、二度見しようとした。目に飛び込んできたものを疑い、もう一度見ようとした感じである。あれはたしかに国鉄時代の駅名標だった。そう思えた。

 だが、折しも新宿駅の駅名標を眺め、天浜線で見た国鉄時代の駅名標のことを思い返していたときである。きっとそれは幻影に過ぎない。そんな気がした。

 でも、やはり気になっていた。もしかしたら代々木駅にもまだ、国鉄時代の駅名標が本当に残っているかもしれない、ということである。

 私がその駅名標を見たように思ったのは、代々木駅の4番線ホームである。山手線の内回り電車が発着する2番線ホームから、中央緩行線の上下線を挟んだ向かいのホームだ。

 それで翌朝、通勤で山手線の外回り電車に乗ったとき、今度は右窓をずっと注視し、代々木駅にさしかかるのを待ち構えた。

 そして、明るい空の下で、しかと見た。

 たしかに、国鉄時代の駅名標はあった。4番線ホームにたくさんある縦長の駅名標の中で、中程のただ一つが紺地に白字のものであった。

 幻ではなかった。





 後日、それをじっくりと見に行った。
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 こんな身近なところにまだ、この駅名標があるとは思わなかった。今までそれこそ毎日のように通っていたのに、なぜ気付かなかったのだろうか。不思議なくらいであった。

 間近で見て改めて確認できたのが、縁取りの色が路線ごとに違っていたということである。この4番線ホームは中央緩行線の発着ホームだから、電車の色に合わせて縁取りの色もカナリヤ色である。これが山手線のホームだとウグイス色で、中央快速線のホームだとオレンジ色で、京浜東北線のホームだとスカイブルーだったと思う。天浜線の駅名標の縁取りがオレンジ色だったのは、かつて二俣線に走っていたディーゼルカーが、首都圏色とも呼ばれるタラコ色か、朱色とクリーム色の一般色だったところから来ているのだろう。

 そんなことを思い出しながらこの代々木駅の駅名標を眺めていたが、その場所はまさに国鉄時代の風景そのものであった。背後の壁面も、国鉄のときからそのままではないだろうか。ただ、ちょっと残念だったのは、駅名標の下に付いていた小さな広告がなかったことである。

 それにしても、なぜこの一箇所だけこの形の駅名標が残っているのだろうか。他の駅名標はすべて、JR東日本のタイプのものである。

 まさか付け替え忘れたとは思えない。代々木駅の駅員さんに「あのぅ、駅名標が一箇所だけ国鉄のものなんですが」と言ったら、駅員さんは「あ、ごめん、忘れてた」とか言うだろうか。そんなはずはない。これはきっと、意図的に残してあるのだと思う。

 その身近な国鉄時代の名残に、天浜線への訪問をきっかけにして気付くことができたのは何とも嬉しいことであった。これからは、通勤の行き帰りにこの駅名標を注視し、古きよき国鉄時代を偲ぶことにしたいと思っている。

by railwaylife | 2012-03-08 22:51 | | Comments(2)

モノクローム天竜二俣

 私が持っているポケットサイズのコンデジはフィルムメーカーのものなので、フィルムシミュレーションなるものが付いていて、色合いを通常のカラーフィルムモードの他にモノクロフィルムやセピアフィルムのモードに変更することができる。

 そんなモードがあるので、国登録有形文化財にも登録されている古風な天竜二俣駅を「転車台見学」で訪れたとき、ついついモノクロフィルムのモードで駅の風景を捉えてみたくなった。
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 それにしても、古風な風景を見るとこうしてモノクロで撮ろうという気分になるのはなぜだろうか。古いものがより古いように見えるからだろうか。昔の写真ぽく見えるからだろうか。

 ただ、慣れていないとモノクロの写真を撮るのはけっこう難しいことだ。カラーの写真以上に明るい部分が飛んでしまい、真っ白になったりする。

 とは言え、こうして古いものを古めかしく捉えようとするのも楽しいことではある。だから、これからはもっとこのモードを楽しみながら気軽に撮ってみたいと思う。


天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅にて 2012.2.5
by railwaylife | 2012-03-08 22:45 | | Comments(0)