鉢形城と八高線

 寄居の街を訪れた一番の目的は、この鉢形城跡を見学することであった。
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 鉢形城は、寄居駅の南、荒川沿いにあった戦国時代の城で、現在は城跡が公園として整備されている。

 そもそもこの城は、室町時代の文明八年(1476)に、関東管領山内上杉氏の家臣であった長尾景春が築城したと伝えられている。

 その後、上杉氏の家老でこの地方の豪族でもあった藤田康邦が小田原の北条氏康の四男氏邦を城主に迎え入れ、小田原北条氏の重要な拠点になった。そのため、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、前田利家や上杉景勝らの北国軍に包囲されたという。その軍勢の中にはいま話題の真田安房守も加わっていたそうだ。

 城は一ヵ月以上の籠城戦の末、落城したという。あの「のぼうの城」ほどではないにせよ、激しい攻防戦が繰り広げられたことであろう。

 というのも、この鉢形城は天然の要害だったからである。

 城は荒川とその支流の深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていた。実際、城跡に行ってみると、荒川に面した北側は切り立った崖になっていたし、南を流れる深沢川の谷も深かった。

 ただ、城の西側は開けていて、防衛上の弱点になっていたそうだ。そのため、城の中心から西側にかけては何重にも堀切を備え、曲輪がいくつも造成されていた。

 その城跡の西側を、現在はJR八高線の線路がかすめている。
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 前田利家や上杉景勝らの北国軍と同様、上野国から寄居へ入って来た八高線は、荒川の谷に立派なトラス橋梁を架け、この鉢形城に近付いて来た。城の西側から進入してくるというのは、まさにこの城の弱点を突いた形だ。

 そして、城の西端に鎮座する諏訪神社の縁をかすめれば、いよいよ鉢形城の大手に迫る。

 しかし、線路は大手を避けるようにして西へと向かう。そして、わずかに外曲輪をかすめただけで城内には入らず、南を指す。つまり、鉢形城は八高線の進入を許さなかったということである。それで止むなく八高線は、同じ北条氏の支城がある八王子へと向かったのではないだろうか。

 そんなことを妄想しながら、城跡の中を歩いていた。



 ところで、この場所に鉢形城があったのは自然の地形を利用して堅固な城を築くことができたからというだけではない。この地が、交通の要衝でもあったからだ。城の東側を鎌倉街道が通り、西の釜伏峠から下って来た秩父往還が城の正面へ来るように築かれていたという。それで、上州にも信州にも睨みが利くようになっていたそうだ。

 そんな鉢形城がある寄居は、現在でも東武東上線、JR八高線、秩父鉄道線が交わる交通の要衝であると言える。

 さて、この鉢形城に私はすっかり夢中になり、公園の中をずいぶんと熱心に巡った。いくつもの曲輪や堀があるのでけっこう起伏のあるところだったが、そこを丁寧に上ったり下ったりしながら城内をくまなく見て回った。
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 戦国時代の城だけに、防備が目に付いた。この城には石積土塁や横矢掛り、角馬出といった特徴があったが、中でも私が注目したのは障子堀である。横に長い堀の底に、一定の間隔で縦に敷居が設けられているのを障子堀というが、これは堀の水面を一定に保ったり、敵が堀の中で動くのを防ぐ効果があるそうだ。北条氏の城はなかなか考えられているなあと感心しながらその障子堀の跡をじっくりと眺めた。

 ただ、この城は防備のことだけが考えられていたわけではない。秩父曲輪には庭園や茶室の跡があった。壮絶な籠城戦があっただけについつい防備ばかりに目が行きがちだが、こういう文化的な側面もあったんだなあと改めて知る思いであった。また、城内からはかわらけが出土しているそうだが、これは北条氏の支城の中でも主要な城からしか出ていないという。その点から、この鉢形城が北条氏にとって重要な拠点であったことが窺えた。たしかに、実際に歩いて回ってみると想像していたよりずっと大きな城であった。

 こんなふうにして、じっくりと鉢形城跡を味わったが、おかげで思ったより見学に時間がかかってしまった。でも、何かに夢中になって時間を過ごせたというのは幸いなことであった。

 すっかり満足して、見学を終えたところで寄居の地を後にすることとした。


2枚目 JR東日本キハ110系気動車 八高線折原駅~寄居駅にて 2016.2.28
by railwaylife | 2016-03-26 21:00 | JR東日本 | Comments(0)
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