京王線下高井戸駅は、東急世田谷線との接続駅である。
かつて京王線と世田谷線の間には渡り線があり、両線の線路はつながっていたという。戦時下、東京の多くの私鉄が東急に合併されていたいわゆる「大東急時代」のことだ。当時、京王も東急に吸収されていた。世田谷線がまだ玉川線(支線)と呼ばれていた頃でもある。
この玉川線と京王線は奇しくも同じ軌間、同じ電気方式であった。そこで渡り線が作られ、両線を車両が行き来できるようになった。
その目的は、京王線の戦災車両の復旧整備を進めることにあったそうだ。それらの車両の車輪の削正を玉川線の大橋工場で行うこととなり、京王線の桜上水工場と大橋工場との間を直通の配給電車が走るようになったという。
ただ、当時の玉川線はまだポール集電式であったので、パンタグラフの付いた京王線の貨物電車にポールを装着して両線を直通運転できるようにしたそうだ。
そんな直通電車が通った渡り線も、戦後に京王が東急から分離した後に撤去された。線路跡は道路となり、そこに面して東映の映画館ができたという話だ。
渡り線が分岐していたのは、現在の下りホーム明大前寄りあたりだったらしい。
その痕跡はもうないが、今や10両編成の長大な通勤電車が行き交う京王線と、2両編成ののどかな路面電車の往く世田谷線が渡り線でつながっていたのかと思うと面白い。
なお、大東急時代には、ここの渡り線を利用して玉川線の電車を京王線に乗り入れさせ直通の営業運転を行うことも検討されたそうだ。だが、結局実現には至らなかったようである。
ところで、京王線の軌間が東急世田谷線と同じなのはもともと京王線が軌道(路面電車)として開業し、その当時の軌道の標準軌とでも言うべき1372mm(4フィート6インチ)を採用したからであった。
京王線はその昔、起点の新宿追分で東京市街鉄道(のちの東京都電)と接続していたため、その路線に乗り入れる計画もあったと言われている。
京王
8000系電車 京王線下高井戸駅にて 2014.10.24