日常にかまけていると「いつかまたそのうちに」なんて思っていることは、いつまで経っても実現しない。そのうちに機を逸してしまい、やっておけばよかった、なんて後悔するのが関の山である。
先月中旬、私は小田急線沿線にあじさいの咲く場所を訪れ「あじさい小田急線」を眺めたとき「またこの場所にあじさいを見に来ようかな」などと思っていたが、そんな想いもまさしく実現しないうちに花がしおれてしまいそうな気がしていた。
それで月末になったとき、私は「必ず今月のうちに再訪しておこう」と思い、6月30日の朝に意を決してその場所へ行ってみた。
再訪したいと思ったのは、前回訪れたときに花の色付きがまだ十分ではなく、もっと花の盛りのときにここのあじさいを眺めたいと思ったからである。
だがその日、あじさいの咲く場所に向かいながらも私は、もう花の盛りには遅くしおれているんじゃないかという気もしていた。
それでだんだん焦ってきて、目的の場所へ向かう足取りも次第に速まってきた。
そして、緊張しながら線路沿いのあじさいの元へたどり着いてみると、まだ花はしおれていなかった。
いや、しおれていないどころか、まだ色付いていない花さえあった。
一方で、すでに色褪せたり、茶色くなり始めているものもあった。
そんな様子を目にした私は、自分が「花の盛りのときにここのあじさいを眺めたい」と思っていたことを恥じた。
私の思っていた「花の盛り」というのは、すべての花が綺麗に色付いて活き活きとしているさまである。
でも、そんな風景は自分の勝手な理想であり、現実にはあるはずもなかった。それぞれの花にはそれぞれの事情がある。だから、そのすべてが一遍に色付き、一遍に盛りとなり、一遍にしおれてゆくなど、あるはずもない。そう考えるのは「花の一番いいときを見たい」という、人間の勝手な都合である。そんな人間の欲望の通りに花が咲くはずもない。
だったら、花の都合に合わせて、てんでばらばらの花の状態を楽しめばよい。色付いていようがいまいが、しおれていようがいまいが、そのさまを楽しめばよい。そう思い直して私は、この場所の「あじさい列車」の風景をたっぷりと楽しんだ。
やがて「
あじさいEXE」もやって来た。
前回この列車を見送ったときには、その終着の先にあるあじさいを見に行きたいと想ったりもした。
しかし、今回目にしたときには、もう同じ想いにはならなかった。
なぜなら、すでに「
あじさい日和の旅」を経ていた私は、もう自分の中に「その先のあじさいの風景」を手に入れていたからである。
小田急小田原線参宮橋駅~代々木八幡駅にて 2011.6.30